九州磯釣連盟 海洋磯釣倶楽部(サーフメイズJAPAN)2025.3月で創立50を迎えました
Sports fishing information service japan 1976.3.創立九州磯釣連盟 海洋磯釣倶楽部
 musick クラシック 11

海洋磯釣倶楽部が利用する、佐賀県肥前町晴気港渡船、隆盛丸(肥前町晴気港)рO955―54―1289


          九州文化めた人々2

九州の釣り文化を貴めた人々 2
  釣り人に優しい、関門海峡の花、関門釣友会、清家康二さん
                   親友 九州磯釣連盟 北九州支部、海洋磯釣倶楽部 会長 上瀧勇哲


遠―ィ昔、始めて「投げ釣り」サーフという言葉を知ったのは、北九州市小倉北区の国道10号と3号が交わる、三萩野交差点、側にあった常広釣具店でした。TOTO機器に勤め始めた、弟の上瀧哲郎さんが、投げ釣りクラブに入会したのがキッカケで、投げ釣りイコール、サーフキャステングという釣り方を、この店の店長、常広さん、そして、お店を常連にしている三萩野サーフ会長、北野 孝さんから、教えてもらったのがスタートでした。

その三萩野サーフキャスティングクラブとは、TOTO機器という大企業の中にある趣味の部活の一つで、TOTO機器に関連する下請け企業人も、広く入会できる仕組みとし、クラブ名は三萩野サーフ。その上部団体が全日本サーフスポーツキャスティング連盟(大阪)。その下部組織に北九州サーフ協会、所属の時代でした。その常広釣具店に通う、たくさんの釣り仲間がTOTO機器のクラブ員。弟に誘われ、三兄弟そろって入会したときは60名を超えていたマンモス釣りクラブでした。若い20代の頃から、釣りの主体をサーフか、ウキ釣りか、どちらを取るか、としたら、サーフを主にしていた私かも知れません。
それは若者の多くが投げ釣りをしていた事から始まります。当時の北九州サーフ協会には、20を越えるサーフクラブがあり、関門海峡に面した北九州市小倉、戸畑、門司に、投げ釣りクラブの多くが存在し、その中に、私より一つ上の清家康二さんがいました。


北九州支部役員懇親会、菅原会館 左 清家康二さん、京築地区長、私。 左 植田さん、清家康二さん 左・小倉特徴吉田さん

その後、九州磯釣連盟が昭和52年に発足し、門司磯釣倶楽部の都留正義さんが、初代会長となった事をキッカケにして、清家康二さんも関門釣友会を結成、全日本サーフから九州磯釣連盟に登録されました。そして私達、海洋磯釣倶楽部も、若松から九州磯釣連盟の 創立クラブとして入会する事で、清家康二さん率いる関門釣友会との接点が生まれたのです。


オール九州釣り選手権 魚拓審査会 毎日会館 右 清家康二さん。関門チャリティ天使育児園。関門投げ釣りイシモチ選手権表彰

当時は北九州支部会員、1600人。約300(クラブ)の、マンモス組織とし、都留正義さんの親友、全日本サーフキャスティング連盟の役職をしていた門司サーフの金田 厚さんに、是非、九州磯釣連盟の参加を要請した都留会長でありましたが、釣りスタイルが別物であったので叶わず、それでも九州磯釣連盟の対象魚がアイナメ、カレイ、シロキス、イシモチが、投げ釣りスタイルで、関門海峡で釣れるので、関門釣友会の清家さんグループと、海洋磯釣倶楽部の、サーフを志す仲間達が、多く参加し、競い合った時代でした。
いつしか北九州支部の総会で、清家康二会長が、支部の役職に関わることを知り、又、門司区に住み、自営業をされている事で、九州磯釣連盟、都留会長や全日本サーフの釣り仲間など、幅広く付き合いしている事を知りました。


九州磯釣連盟 博多フレンドサーフ主催の平戸大会に参加の関門釣友会。北九州支部の釣り場クリーンアップの清家さん

そして、もっとも深く関わったのが、北九州支部の社会福祉事業「チャリティ船釣り大会」です。釣れた魚を門司天使育児園に持って行くのですが、その釣り大会のキッカケを清家さんのアイディアで実現された、と聞いています。彼の家の近くに、その施設があったからで、今でも北九州支部は、門司天使育児園と繋がりをもち、「北九州少年少女釣大会」には、多くの子供達、先生を招待し、私達が、お世話係しているから凄いのです。


九州磯釣連盟 主催 ビッグ釣り大会でシロキスの部3位入賞。

そして、北九州支部の中でも、とりわけサーフ部門をリードしてきた関門釣友会と海洋磯釣倶楽部の絆がドンドン深まってくるのですが、40年以上の付き合いの中で、海洋磯釣倶楽部が主管する「第1回 関門投げ釣りイシモチ選手権」では、関門釣友会の木村さんが優勝しました。その後、大会名を変えながら18年続いた大会に関門釣友会の会員さんが多く入賞しました。そして、九州磯釣連盟のBIG釣り大会や、九州磯釣連盟の各種大会でも、関門釣友会は常時入賞。海洋磯釣倶楽部と競い合った長い歴史がありました。


博多フレンドサーフ平戸大会に前列左、清家さん、横に武原さん、梅原さん、立っている打越さん、濱口さん。

その中でも福岡支部、博多フレンドサーフ、梅原 昌会長が、主管する長崎県平戸島大会でも第5回大会から参加するようになり、いつでも、何処でも清家さんグループと顔を合わせ、楽しいコミュニケーションがありました。取り分け一番多く共有したのが北九州支部主催の「少年少女釣大会」。この大会はボランティアでお世話係するもので、関門釣友会は九州磯釣連盟発足当時から子供達の指導員として活躍されました。その清家康二さん、私と顔を合わせると、いつも「ジョーさん」名で呼んでくれる親友です。いつもニコニコ笑顔で、しみったれた顔など一切、見せたことない方です。

自営業は塗装屋さんという事で、新しく住いを変えた行橋市、家のリフォーム外壁工事から防水工事など二度ほど、格安でしてもらいました。また、弟の哲郎さん、周作さんの家でも立派な塗装工事をしてくれました。その塗装工事は、単に家のカベを塗るだけでなく、それに追随する工事、配管や木戸、雨戸など、何でもしてくれる。まるで外壁のリフォーム工事屋さん、みたいな仕事ぶりを、塗装工事のみの、代金でしてくれるので、「赤字じゃないの?」と、私が聞くぐらいです。セイケ塗装店は、息子さんの親族で補えているのですが、その事で釣り仲間が、より増え、商い上手とか、考えたいのですが、現実は厳しいようです。

釣り人に、釣り仲間に弱い性格なのでしょうか。要は人が良すぎるのだと想います。

同じような釣り人が、若松区に住んでいた福山サッシガラス店。福山和幸さんも九州磯釣連盟 若松地区長を10数年勤めた方で、ものすごく、お人よし。個人自営業されているので、自分勝手に料金を決めてしまうのです。奥さんが聞いたら怒るかも知れませんが、そんな釣り人が九州磯釣連盟を支えていると想うのです。そのトップリーダーが下村要一、元会長です。もちろん初代の都留正義会長も自営業の、門司区の酒屋さんなのです。今、紹介している釣り人は、何処かで共有されたハートを持ち、九州磯釣連盟の発展に貢献された名誉会員とも言える立派な方でした。


わくわくマリバー少年少女釣大会、指導員・世話係の九州磯釣連盟北九州支部 右中の、清家康二さん。

中古家を購入し、行橋市に引越して早19年になりますが、その家を新築できるぐらいのリフォームをしました。そして二度目の外装工事はセイケ塗装店にお願いしました。2F3Fの鉄筋コンクリートの屋根はヒビだらけ。それで雨漏りがする事に気付いたのが清家さんです。平らなコンクリートを磨き、高圧洗浄機から、シースルーで樹脂加工しながら、7層もの、厚いシート兼、塗装工事をしてくれました。もちろん、その他の外壁から縁側の木工修理にシロアリ塗装、雨戸まで全部塗ってくれ、新築になった気分です。

何処かの会社の、見積もりの半額でしてくれました。そして20日間ほど門司から来て、4人がかりの工事。その間、妻が接待するのですが、彼女の事を清家さんが「洋子ちゃん」と呼ぶのです。私は「ジョー」さんの、ニックネームで話し合えるのは清家さんだけです。そのぐらい親しい仲とも言えるのですが、物事をハッキリ、スッキリ、ヤルので、彼としゃべると物事が良く伝わる、良く聞ける。あいまいな返事、話しはしないので、清潔感、律儀なアクションで、誰からでも好かれ、頼みごとも多くありそうな気がします。
北九州支部の会計監査役を15年ほど勤めたのも、良く分かります。そのような親友を、まさかの出来事で今年の、賀状で知りました。


後方左の、長崎インターサーフの濱口さん横に、清家康二会長。前列中に打越さん、右に梅原 昌会長など

1228日、仕事仲間と打ち合わせ、していたとき、ちょっとフラついて倒れました。動脈乖離で気を失い、わずか1時間足らずで亡くなった、とかでした。奥様の話しで「救急車が来るのが遅くて」。私より一つ上で、若いときから元気か良く、商売上手とは言えませんが、とにかく強い。塗装工事を専門にするので、高い橋ゲタに乗り、命綱付け、塗装する現場も多く、関門大橋の塗装とか、下関市六連島の、数十mもある高い煙突工事塗装を自慢するのです。元気以上に度胸がありキモが座った人間でないと、そのような場所で工事などできません。そんな清家さんと魚釣り、そして釣り仲間、親友として40年以上付き合いしました。
楽しい想い出が、あまりにも多く、釣り敗けた事も何度もあり上勝ちする仲間を失いました。
今は長男の清家竜一郎さんが父の家業を継ぎ、新しい会社を門司区上馬寄で行っています。
奥様も元気で、康二さんを支えていましたが、まだ60代の若さ。息子さんの時代に入り、これから、もっと大きな会社に育ってほしいと願い、私達もセイケ塗装店を応援したいですね。             2020.11.

()セイケ塗装 800-0042 福岡県北九州市門司区上馬寄2丁目1-27 電話 093-391-4760


2006.2020.



   
北九州市小倉南区、つりひこ釣具店、中川芳雄さん


昭和60年5月、若松から小倉南区に引越した。当時は、まだ田舎町の志井であったが、すぐに都市モノレールが開通され、翌年より、みるみるマンションが立ち並び、グリーンパレスという大きな総合娯楽施設ができ、公園や交通科学館ができ、大型スーパーがドンドン進出した。

その当時、そばを流れる志井川はけっこう奇麗な三級河川でコイやフナ、メダカ、カメ、エビまで居て、ザルで掬える川があった。その川のそばに、つり彦釣具店さんがあった。

当時、息子の真一が通っていた小倉南少年サッカークラブの後援会組織の学年役員としてお世話係をしていたら、その先輩父兄がみんな釣り大好き人間で、みんな、つり彦釣具店さんの常連客だった。当然私もそのお店を利用することになるが、そのお店、家からチャリンコで5〜6分たらず。すぐそばにショッピングセンターがあるので、買い物がてらに夫婦でお付合いをしてもらった。

そのご主人、人が良くて話が分かりやすい。おっとりしているのだけれども釣りキチで、なんでも詳しい。若い頃は釣り具の卸し営業マンをしていたところ、同業者の奥さまと出会い、このお店をかまえたことを知った。
その若奥様が美人で、人あたりが良くて、人なつっこいので、多くの釣り人がこのお店を常連とした。とうぜん私も、その仲間の一人。

同じ釣りをする夫婦どうし、気心が知れて30分、1時間も話し込むことが多くあった。
「小倉南少年サッカークラブ」や「海洋磯釣倶楽部だけョ」の寄贈を良くしてもらった。

そして、そのおしどり夫婦が経営する、つり彦釣具店さんから、いつしかご主人様が去ってしまわれた。
1年あまりの闘病生活だったけど、最後まで上瀧さん、上瀧さんと微笑み返しを忘れない優しい人だった。あの優しい、つり彦さんにもう会えないことが悔しい。

                       …… ◇ ……


中川芳雄 儀

皆様との楽しい想い出を胸に安らかに旅立って逝きました
ご多用中にもかかわらず、ご会葬頂きまして誠にありがとうございます。
心より厚く御礼申し上げます。
24歳にして独立を果たした後、周りの皆様方には本当に良くして頂きながら、仕事に趣味にと充実した人生を歩み続けてきた夫でした。
一家の主として家族を支える傍ら、一人息子には特に苦言を呈することもなく、温かく見守ってくれておりました。
趣味を共にしたお仲間の方々と、大好きな釣りを楽しむ一方、テレビでのスポーツ観戦に一喜一憂する夫の姿は、今も頭に浮かんで参ります。
一月末の病発覚以来、入退院を繰り返す中、復帰を目指し懸命に治療に専念する夫の姿に、奇跡を信じ共に歩んで参りましたが、家族の願いも届かず、一日夜、静かに旅立ちました。
皆様には、夫の生きてきた証をこの機会に偲んでいただき、想い出の片隅に留めていただければ幸いです。
また、生前夫が大変お世話になりましたことを、この場をお借りしてお礼申し上げます。

平成18年11月4日
                                             喪主 中川信子


                           


          九州文化めた人々2



   平成23年3月11日14時46分東日本大震災、二万人を越える死者


平成23年度が押し迫った12月にこの稿を書いていますが、今年初め、東日本大震災に遭遇した、たくさんの人々が地震と大津波により多くの命が失われました。

その中に私とお付き合いのあった釣り人や仲間達、同志などが犠牲となり、釣具店がまるごと消滅した地域がたくさんあることを知りました。

そんな悲惨な震災にもめげず、復興とガンバル人々の熱いハートが新聞、テレビなどを通して知る分けですが、私達九州人はその人々に何かをしてあげたい、その想いを届けたい、そのようなハートで災害基金を募り、色々なところで募金に協力しました。

私達が加入している九州磯釣連盟という釣り人組織の中には募金のみならず、現地に出向き、ボランティア活動から物資などの支援を行った方がたくさんおられます。

その中でも九州磯釣連盟、牛島福岡支部長をリーダーとした執行役員さんの活動は私達九州人、釣り人の誇りでもあります。

個人や釣りクラブ組織であっても中々ボランティア事業のアクションは難しく、生活に余裕があっても我が身を削る活動は中々できるものではありません。

そのような活動をしている人々の勇気と熱いハートをメディアを通して私達はたくさん知っています。

日本人ってイイなァー。すごく人情深い、優しい人間なんだ!!、そう想いながら、この稿をつづけます。


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   樺゙研、8年間の釣り人、山下正一副社長



私達、海洋磯釣倶楽部の伝統は、他のクラブがマネできない、釣りマナーアップとか釣り場美化、あるいは子供達の育成を考えた指導員とか稚魚放流事業など、会員皆してボランティア、奉仕ができる釣り人です。

その年間行事の中で一般釣り人を集めた釣り大会を毎年開催しています。
平成5年から始めた
「第1回 関門投げ釣りイシモチ選手権」は門司区新太刀浦岸壁で開催し、第5回大会からは太刀浦、第10回は新浜岸壁、第12回から西海岸、第14回からは日明海峡海釣り公園と続きます。なぜ場所を変えないといけないのか!!それは、その釣り場がSORAS条約の基で閉鎖されたからなのです。

そして第16回、第17回と続き、長崎県鷹島では
「クリーン鷹島カップ」等とネーミングを変えながら開催してきました。
平成23年12月11日は
「第2回 クリーン関門海峡釣り大会」として今に続き、もう20年以上続いている釣り場クリーンアップの大会なのです。

そのような大会には(財)日本釣振興会、他、全九州釣ライター協会など、たくさんの有名釣り具メーカーさんが協力してくれます。その一番が樺゙研でした。樺゙研イコール(財)日本釣振興会 福岡県支部というボランティア組織があります。その上にあるのが九州地区支部で、潟^カミヤ社長の高宮俊諦さんがお世話係です。
その二つの組織が毎年私どものこの大会に全面協力してくれるのです。だから出来ると言っても過言ではありません。

その(財)日本釣振興会 福岡県支部、事業部長であるのが信岡武昭さんです。もちろん樺゙研の社員でもありますし、田中栄一社長の側近でもあります。又、私どものクラブに10年間、会員という肩書もあります。その親密なお付き合いがたくさんある中で、私達の
「クリーン関門海峡釣り大会」には、いつもたくさんの協賛賞品が頂けていました。
              
そして平成17年6月○日に
「第13回 関門海峡夜釣り選手権」に、始めて釣りをするという山下正一さんを、信岡武昭さんが無理やり引き連れて参加されます。
「上瀧さん、新人の釣り人、山下です」と初めて紹介されたのですが、ピーンとこなかったのですね。後から山下さんが副社長であることを聞かされたのですが、そのぐらい山下さんは釣り人に謙虚で、教えてもらわなくてはならない、そんな姿勢で信岡武昭さんと寝る暇もないぐらい猛勉強したのです。

私達の大会は夜釣りですが、夜8時ごろになると会員はもちろん、一般釣り人も、ホームパーティに参加できる和やかな飲み会?が深夜まで続きます。もっともアルコールは少しですが、バーベキューをしながらオシャベリが長ーク続くのです。その中に山下副社長が入り、すごーく楽しそうです。一晩中お付き合いしてくれる山下さんと信岡さん、表彰式で(財)日本釣振興会 会長代理を、いつもしてもらいました。

子供達に優しく、釣り人にもすごーく気を使っている山下さんに、良いスタッフがいつも付き添っている、そう感じているのは私だけではないはずです。

日明海峡海釣り公園では釣りマナー講習室で、信岡さんと一緒になって講義したこと、表彰式も山下さんが居るおかげで、後援する(財)日本釣振興会としての格好がつくなど、とにかく樺゙研モデルがそばに居てくれるだけで私達、海洋磯釣倶楽部はありがたい存在でした。又、私達、海洋磯釣倶楽部以外の
「わくわくマリバー少年少女釣り大会」「北九州少年少女釣り大会」「ハローフィッシング」「海辺感謝の日」釣り場掃除、そして「釣研FG」のたくさんなる会場での世話係等で、年に5〜6回普通に会うことがありました。

そのような出会いの中で、昨年からちょっと寂しそうな顔をされていたのですが、まさか病気がちであったことなど知りませんでした。そして平成23年4月に亡くなったこと、楠根社長さんから聞いたのが10月でした。本当に申し分けなく思います。
私より2つか3つ年上と聞いていますから、まだお若いのに残念でたまりません。

世の中色んなことがたくさんありますが、みんな私達個人レベルでの考え方、過ごし方をしています。私を中心にした物の考え方を、人それぞれに生きることでしかありません。
人の道の中に他人が入り込む余裕はありませんが、その人の事をたくさん想い、これからの私の歩みの中で、生かしてゆくことも大切かと思います。親しくお付き合いできた8年間でしたが、いつもハートが温かく、お兄さん!! と呼びたいような人柄が大好きでした。
心を込めて、ご冥福を祈ります。


2011.11.


 

海洋磯釣倶楽部 主催の 第12回 関門海峡夜釣り選手権で
(財) 日本釣振興会 福岡県支部長 山下正一さんから優勝 表彰




(財)日本釣振興会から配車のマリバー号(清掃車)にゴミ満タン

 


平成23年度は、私の知るたくさんの釣り人が亡くなりました。

その中でも特に釣界に貢献した、潟}ルキュー前会長、中村和敏さまは、毎年、数千万円の財を(公益財団法人)日本釣振興会に寄贈しておりました。もちろん会社組織というのもあるのでしょうが、それらのお金は釣り文化とか、釣り人の育成から、稚魚放流事業など、多岐にわたる事業に利用されております。又、鰍ェまかつ会長の藤井克己様は、全九州釣ライター協会を通して私たちの活動を30数年間支えて頂きました。九州磯釣連盟、都留正義会長をサポートしながら連盟の発展に最も浄財で協力した方です。又、ジャパンダイナミック磯釣連合組織や、現在のGFG組織にも多大な事業をサポートしますが、会社組織でなく個人的にも九州の釣り人を最も愛してくれた方と聞いております。その上で公私ともに釣界に貢献された方は後にも先にも、この方以外ありません。そのぐらい粉骨努力された方です。そのような活動を国、内外でリードされました有名な方から喪中が届いています。改めて、皆様の心を感謝として受け止め、これからの釣界に活かしてまいります。ありがとうございました。  

釣り具メーカー各社が公益法人とタイアップして、たくさんの資金、助援で、私達が知らないところで大きな活動をしています。それらを支えているのは私達、釣り人の優しいハートがあるからこそガンバって頂いているのかも知れません。
みなさん、釣りマナーアップ、ゴミの持ち帰りをすることにより、海岸線の開放などを、これらの諸団体が行政に激しく提言できます。又、お魚釣り文化をもっと優しく、広く、次世代の子供に繋げる為にも、皆でなにかしの協力をしたいですね。よろしお願いします。 釣りに行きましょう!!




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   執筆活動と釣りを全うした田川磯釣連合 会長 向井吉夫さん


熱い味噌汁の中に辛い柚子コショウを入れて飲むと体がピンピン長生きしますョ!!、という、ユーモアたっぷりで親しみやすい、田舎のおじさんがいました。

月刊 釣ファン常任熱筆者で、すごーく釣れる釣行記を書いていました。それで、その穴場に釣行すると大当りなのです。すぐに向井先生の大ファンになったのが昭和40年代のころです。

会社の釣りクラブが発足し、四国佐田岬半島に随分通いました。みんな向井吉夫先生のおかげです。
三岬町正野港の釣りはもちろんですが、その港から出る光進丸で、佐田岬の磯釣りを随分しました。釣りきらなかったけど、磯からタモでカワハギをパグパグ掬いまくる益田さん、東、保里さんも、私はマキエ係。下から掬うと、一度に10〜15匹のウマズラハギの30pクラスが掬えますから、益田勝ちゃんは腰が痛いとかで、いつも36リットルクーラー満タンでした。
その正野港から続く佐田岬半島の港めぐりは、ホンダNVからホンダZで随分探訪しました。

そして一番クラブ仲間が愛したのが大分県津久見四浦半島で、大元港の神田船長、ひかり丸や深良津港の老船長さん、刀自ヶ浦の上野船長さんから、赤崎港の川崎船長さん、みんな小さな船でしたけど安上がり、庶民的な渡船で、しかもお魚さんは大きくないけど、私達クラブ員にはちょうど良い手の平サイズのお魚さんばかりで、随分、四浦、津久見に通ったものです。これもみんな向井先生が書いた原稿のおかげなんですよね。

そんな向井先生が主催する上田川磯釣クラブの山陰、油谷湾大浦イカダ釣り大会に2度参加して、当時、向井先生と仲の良かった菅沼定雄さん、二人とも月刊 釣ファンの同志ですけど、この方達に気に入られて私も月刊 釣ファンの投稿者になりました。もちろん投げ釣りとかファミリーフィッシングの釣りスタイルですが!!

それと向井先生は「潟Iーナーばり」の大ファンで、昔からズーッとオーナーばりをPRしています。

私とオーナーばりさんとの出会いは、オーナーフックメイト(今は廃刊)で、シロギスの魚拓34.2pを提出してからのきっかけで、当時のオーナーばり宣伝企画、近野寿雄さんが、わざわざ我が家に来て一晩飲みあかし、次の日「向井先生のところに連れて行け」と言うので、家を知らないのでクラブ員の田川に住む山滝一道さんに連絡して同行、案内して始めて向井先生のお家に行き、経営されている旅館を案内してもらい……色々ありましたね。

そのオーナーばりファンとか、月刊 釣ファンのよしみで随分可愛がってもらいました。
向井吉夫さんが務める田川磯釣連合の会長職、山本敬竿さん(若松敬竿)と仲良しの間柄、そして九州磯釣連盟ができたりして、しだいに向井先生が釣界から引退することになります。

その後、向井先生の一番弟子である大道 明さんとの交友が九州磯釣連盟とつながり、最近は、まさかの海洋磯釣倶楽部に入会するとは夢にもおよばなかったのですね。そのきっかけで、最近の、向井先生のことを少しずつ聞いておりました。

数年前、大道さんの架け橋で釣研のライフジャケットを先生に贈ったら、たいそう喜んでもらえました。
礼状の中に「これを着て豊前の海でアジゴ釣りをしています」との事でした。お礼に、あの柚子コショウを2ダースも貰って、ちょっと困りましたけど、釣り仲間に差し上げて喜んでもらえたこと。年に二度、機関誌「海洋だより」を郵送し、返信のお手紙を頂きながらの交友でしたが、すでに向井先生は80才を越えられたと聞いていました。
そして11月4日、やすらかに眠られたと大道さんより聞きました。何もしてあげられませんでしたが、向井先生が残された「大きな釣り文化」は凄く大切にしないといけないと思います。
時代が変わっても、それを築き上げた証は永遠に受け継がれる、そう想って先生の大往生を拍手して送りたいと想います。ありがとうございました。


2011.12.  




向井先生がときどき私に頂けるお手紙です。そして大道 明さんに案内されてゆく添田町の清水港(旅館名)には、もう20年ぶりかも知れません。懐かしいあの時代に帰ってきたように、奥様と共に向井さんを偲びました。

          




               省


随分とごぶさたしております。
「海洋だより」を拝読いたし、上瀧会長さんご一家にはお変わりなく嬉しく思っております。
また釣道の方も相変わらずご指導の事。
小生、今も禿頭低頭するものです。
年には勝てぬと申しますが、全くその通りで、ご存知、大道 明さんには今もって負担をかけており、大きな荷物となっている始末です。

さて、最近は体の調子をみて「年よりの冷や水」とでも申しますが、軟竿をさすっては細柄での小物釣りで、昨年は古巣の津久見湾、別府湾沿いでは、日出海岸周辺の漁港波止。田川郡から近い中津港、宇之島。

今年は9月の声を聞き、曇りの空をみて近場の中津港波止での小アジ狙いのサビキ釣り……
この獲物では「南ばん漬け」の材量を若干手にしている次第です。

大分県豊後灘に面する魚族のアレコレの孫どもは、私の事を聞いているらしく、大層愛想がよく、思わず禿頭を見せた程です。
さて、さて、何をやっても“人様に迷惑はかけない”“命あっての物種”、年だと特に岸壁釣りは危なく、その要心には出来ることならカネを掛けずに「お古」で結構の救命具がほしいと大道さんに相談したところ、その結果が、ナント、上瀧会長さんのお助けにより、また、また釣りする老人の命が延びたと喜んでおります。


9月7日、会長さんからは嬉しくて飛び上がるような上物の救命具が、大道さんの使いによって届きました。これで事故の無い様に心配しての釣行を誓ってペンを置きます。
大変ありがとうございました。末筆ながら奥さまによろしくお伝え願って……其内。お元気で……。

今後も大道さんの指導をお願い申します。
小生、今でも口ほど手足の“技”はございません。念責。
乱筆判読願います。


平成19年9月8日 

                                           向井吉夫



 上瀧勇哲 会長 様




   



  前略

秋もそこに……
朝夕は気持ちのよい時期になりました。
会長さんご一家にはお変わりないと思います。

さて、過去十年、添田町、隣町の大在町が毎年催し時に参加者へ町独自に小量死増って喜ばれる、小生自慢の「柚子こしょう・鬼ごろし」を少しばかり送ります。
会長さんご一家の口に合いますか、どうか?時に試食して下されば幸いです。

9月16日、17日、中津港岸壁で小アジのサビキ釣りを試み、獲物としてヒイラギが多く、イナ1匹、イシモチ1匹、メイタ1匹、本命の小アジは時期的に早いか、腕の悪さが理由なのか、タダの1匹。

しかし南ばん漬けの味覚は覚えました。勿論、用意の救命具で一安心です。
昔なじみの地元、佐田岬の人の「元気だったら一度来い!!」の誘いの声。
一念発起、開拓に7年も要したポイントへ独行しょうかと思っています。
ゆっくり時間をかけての独行も楽しみたいと思っている今日このごろです。
それでは乱筆の早や書きで申し訳ありません。
皆様によろしくお伝え願います。


 9月20日 


                                            向井吉夫


  上瀧会長様





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         九州の釣り文化を貴めた人々 2 第二部 九州磯釣連盟の恩師









                      エピソード・配信 海洋磯釣倶楽部 上瀧勇哲