九州の釣り文化を貴めた人々2 |
スターコーンFM 様 21
美和さん、こんにちは。そして皆さん毎日のお仕事、大変お疲れさまです。
さて、悲しい報告を、させて頂きます。以前、テレビで「ぶらり九州」という30分番組が毎週ありました。主役されていた、
オール九州釣り選手権表彰式で寿さん抽選会役員&洋子ちゃんキス優勝などで寿さんと仲良しでした私達
福岡、吉本興業・喜劇座長されていた方で、合わせて、九州礒釣連盟の広報部長、担当を10年、続けられ、趣味の「石鯛釣りは超名人」だった方です。その方と毎年、数度の総会とか表彰式、釣り大会などで、しょっ中、顔合わせ、コミュニケーションできていたのですが、病気でテレビ番組は吉本興業のケン坊、田中さんに引き継がれ、私達、釣り人の人気者でした。
いつも明るく、優しい寿さんは、平成30年の九州礒釣連盟、40周年記念釣り大会、参加180名の長崎県平戸・五島、大会の執行役員です。私、キスの部で優勝。オマケにラッキー抽選会は一番で、私、まさかの10万円ほどの石鯛ロッドが当たりました。抽選番号を引いてくれたのが、寿 一実さんです。
このときは、シロキスの部の優勝もありましたので、抽選会で当たった高級ロッドは、牛島連盟会長へ辞退したのですが、180名の会員さんの半分が当たるラッキー抽選会。いよいよ、残り1本が、私が寄付したロッド10万円を、まさかの寿 一実さんに当たりました。ところが上瀧さんが寄付したロッドを、もらう訳け、いきません、とかで、寿さん辞退し佐賀県から参加の方が大当たりして、無事、閉会式。そのような、たくさんな想い出話しが、寿さんと、洋子ちゃん、含めてあります。
「いつかは、ぶらり九州ロケ、行橋市に来てよ」、の約束が果たせないまま去った寿一実さん、65才の人生でした。 黙とう。
2023.6. ラジオネーム 大和 (
♪リクエスト……… スマップ 「世界にたった一つの花」
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1978〜 大分県津久見四浦半島、大元港、神田船長で、大カガミ、小カガミへ海洋の津久見大会。
1980〜大分県津久見四浦蒲戸湊、2代目、わこう船長ご夫婦でイカトリ、カネイシ、カブトなどへ。
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九州LKGゴーセンフイルドテスター小倉浮竿、大田一二さん
月刊 釣ファンの常任熱筆者としてお付き合いを始めて17年余り。その浮竿さんとは初代、月刊 釣ファン 河村 博社長の推薦による釣り糸のゴーセン・フィルドテスター「LKG九州」会員として、あの都留正義
磯連会長以下、九州磯連の各県支部長が12名も参集し、ホテルニュー田川で発会した。
その後随分と会議を持ったが、その時より小倉浮竿さんと仲良くなった。
師のホームグランドは響灘沖の蓋井島で師を慕うたくさんの釣り人や、月刊 釣ファンの読者で浮竿さん人気は大変なものだった。
その浮竿さんと亡くなるまで続いたゴーセン・フィルドテスターの釣行。上五島の名礁、津和崎のタコ瀬のハナレの夜釣りで竿を引きずり廻されたこと。そのとき浮竿さんはお休みタイム。
浮竿さんは、ゆったり落ち着いて、なにごとも、じっくり攻めるタイプで、決して人前には出ない、なにごとも控えめで、言葉を選んで人に気配りするから好かれた。
そんな浮竿さんといつも一緒の磯場、福岡市の会議での行き帰りも私の車に良く乗ってもらった。
海洋の大会にも数度参加いただき、私の自慢の親父みたいな人だった。
行橋市今川そばの新しい家に何度遊びに行っただろうか。あのとき自慢のウキを 1本もらっておけば良かったと悔やまれる。
昭和52年〜平成5年頃
大分県津久見赤崎港より出船の川崎丸で、観音崎の磯で大魚した大田先生、(小倉浮竿) 他、海洋磯釣倶楽部の会員
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ヤング鬼笑会 月刊釣ファーン 河村社長、婦人
書くことが好きな若者が小倉北区青葉にある月刊「釣ファン」に良く通うようになった。
いつも河村社長は居ないが、奥様が変わりに愛想良く、熱いお茶やコーヒーを入れてくれた。
島本 修ちゃんや尾田裕和さんが新しく切り盛りする月刊 釣ファンにヤング鬼笑会を結成し、投稿熱筆者の中でも若い和田さんを代表して木原さん兄弟、寒川さんを揃え、大分県蒲江の磯から五島、四国の武者泊まで数多くの釣行を兼ねた、
その集合場所は、いつも「釣ファン」だった。
ちょっと大らかな気立ての優しい奥様からいつも美味しい物をご馳走になり可愛がってもらった。特に、私が書く稿のファミリーフィッシングとか、ジョーさんのフィッシング日誌、それに釣りのファン子の人気マンガが大好きですよ!!の甘い言葉に乗せられて、毎号書く私にとって、すごく励みになる人だった。
社長はお付合いの酒を飲みすぎて入退院の繰り返し。「もう長くないから」と奥様が冗談半分に言っていたら、まさか奥様の方がこんなに早く亡くなるとは、思いもよらないことだった。
昭和60年代
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優しい自然環境を想う高宮義諦さん
平成年度に入り、ますます釣界のお世話係をするようになり、釣行より世話係の比重が多くなったのは、大好きな下村磯連会長のおかげかも知れません。
投稿ペンライターの肩書きからくるものもありましたし、海洋磯釣倶楽部会員36名の活性化から一歩踏み出した九州釣界全体のレベルアップ、そして海洋磯釣倶楽部の豊富な人材にありました。
ペンライターが9人も居る釣りクラブは何処の会にもないはずで、会員皆して釣り人のモラルを貴め、色々な各々のお世話をするようになります。
そのようなとき、ポイントでお馴染みの高宮義諦さんと知り合えることとなり、氏の低い口調の中から北九州市の河川浄化と、お魚が住める奇麗な川作り、そして紫川のアユ放流。
海釣り公園や海岸線の開放等、市政、行政とタイアップした事業展開はなみならぬ決意があったはずです。
氏の生まれ育った豊かな大地、自然環境を少しでも取り戻し、市民が潤いと優しさ、遊べる環境作りに財力を注ぎ込む姿勢は今、ご存知の高宮俊諦さんが受け継ぎ、マリバー財団を設立させて継承されています。
平成5年
定時に開催されている(財)日本釣振興会などの九州、福岡レベルの様々な釣り関連の会議、高宮俊諦座長
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スポーツ新聞で釣りを猛アピールした高橋 斌さん
私と高橋さんの最初の出会いは昭和49年、秋のころでした。
スポーツニッポン新聞、釣り記事の中で「釣りクラブが主催する釣り大会にトロフィを寄贈」する。ことが書いてあり、早速応募したら当選の通知が来て「トロフィを取りに来てくれないか」ということで門司区清滝のスポーッニッポン西部本社にトロフィを貰いに行きました。
このとき、トロフィを貰うための条件として大会の内容や釣果、入賞者等の報告を原稿にまとめ、写真付きで送ってもらえることの打ち合わせをします。その担当者が編集長である高橋
斌さんであり、出会いでもありました。もちろん私はまだ22才。生まれて始めて釣行記事を書くことになり、釣り大会の取材もしないといけない。
ハンディを背負った大会でもありましたが吉田印刷磯釣倶楽部の大会が大分県蒲江で無事終演し、その稿を届けたことから、私のペンライター活動が始まったかも知れません。
その後、高橋さんと九州磯釣連盟 会長、都留正義さん、全日本サーフ 金田 厚さんとのコンビは私の憧れの人となり、投げキス釣りの新聞情報を、そのご三方より、たくさんもらったことになります。
そして、潟^カミヤ社長 高宮俊諦さんの紹介により、全九州釣ライター協会に入会して、会長である高橋 斌さんとのお付き合いが深まったのです。
高橋 斌さんは、スポーツニッポン新聞の釣り記者から編集長まで務めた長年の活動は、協会事務局長、小路 隆さんが詳しく知るところですが、平凡で素朴な釣りを愛し、一般的な釣り文化を特にアピールした方であり、私との接点が大きくあります。
新聞社を定年後、下関市から若潮太郎のペンネームで、近場の釣り情報を届けてくれた高橋さんを慕う釣り人は多く、今頃大親友の都留正義さんと釣りをしているかもしれません。
平成18年9月
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