九州磯釣連盟 海洋磯釣倶楽部(サーフメイズJAPAN)2025.3月で創立50を迎えました
Sports fishing information service japan1976.3.海洋磯釣倶楽部 創立 
九州磯釣連盟 北九州支部 海洋磯釣倶楽部 music クラシック 11

2003.九州磯釣連盟「北九州支部、松井支部長を贈る会」において、左から下村要一九州磯釣連盟会長、公益財団法人 タカミヤ・マリバー環境保護財団 高宮俊諦 様、松井支部長、都留正義 元九州磯釣連盟会長、小路 隆 全九州釣ライター協会事務局長。若かりし頃の皆さんです、轄k{俊諦会長さんは(公財)日本釣振興会会長としてJAPANの釣り具業界を盛り立て、お元気ですが、九州磯釣連盟を引率した4名の方、去って行かれました。釣界に大きく貢献され、私達を育て、力強い九州磯釣連盟の栄光を、釣りロマンを湧き立たせてくれた恩師を紹介しております。2023.3.更新

2019.4.新 第二部 九州の釣り人つ、九州磯釣連盟てた 九州磯釣連盟 前会長 下村要一さん

2006.7.
開催された九州磯釣連盟30周年記念式典、下村要一会長を偲び、再現しました。



2022.3.いよいよ九州磯釣連盟も創立46年となりました。10数年前の写真ですが、懐かしい方が多くいますね下村要一会長の時代は活き盛んなパワー溢れる活力がありました会長に魅せられた釣り師が多くいました。その恩恵を受けた私達ですが、その意志をしっかり受け継いだ牛島康博会長の元で九州磯釣連盟の未来を見据えています。若き日の恩師をもう一度想い出し皆さん、先輩に敗けないハートで九州磯釣連盟をもっともっと、大きく飛躍させましょう。 海洋磯釣倶楽部 上瀧勇哲
        九州の釣り文化を貴めた人々2
      19752022 九州磯釣連盟の恩師
             九州磯釣連盟生みの親 都留正義さん


毎年度開催される九州磯釣連盟定期総会、初代会長が都留正義さん九州釣界のオピニオンリーダーでした。

その総会で海洋磯釣倶楽部の笠井国彦さんがカレイの部年間チャンピョンになり都留正義さんから表彰された。又、上瀧哲郎さんもイシモチの部年間チャンピョンで表彰された。

       九州文化めた人々2  九州磯釣連盟 初代会長 都留正義さん

    九州磯釣連盟生みの親 都留正義さん

海洋の20周年記念大会を長崎県対馬で開催することが決まり、その下調べで渡辺名誉会長、経理の大庭保雄さんと対馬、浅茅湾のチヌ釣りに行った時のことです。

いつもの浅茅湾、釣研丸、中村鐵彦オーナーのおかげで、クーラーはチヌならぬクロが満パイの状況で、帰りの対馬空港に行くと、そこでばったり、都留正義 九州磯連名誉会長と出会ったのです。

言葉は話せませんが、目と表情、動作で、いつもの都留さんと硬い握手を何度も交わし、付き添いの全日本サーフ 北九州協会長 金田 厚さん、九州磯釣連盟 北九州支部 企画部長の豊田健二さんが「今度もキス大漁でしたョ」と教えてくれた。

福岡空港で奇麗にキスを詰めた、たくさんのタッパーをイーグロクーラーから取り出して見せてくれた都留さん。その大型クーラーを、ご自分の愛車に積み込む元気な都留さんと握手し、大きな目で「又会いましょう」と手を振って別れた、この時が私と都留さんの最後の別れでした。

門司区柳町でお酒屋さんを営み、その一室が都留さんの釣り事務所であり、何度この地で温かいお話を聞いただろうか。スポーツニッポン新聞や月刊 釣り雑誌の釣行紀、そして九州磯釣連盟 会長職としての都留さんを慕う釣り人6000人。

市政、行政、財界とのパイプをしっかり握り、いつも釣り人の為に献身的に活躍された都留さん、もうあの力強い握手はできない。

                                  
平成6年5月




九州磯釣連盟20周年、全九州釣ライター協会20周年記念式典に出席の都留正義さん、中、金田さん、松井さん



九州磯釣連盟下村要一三代目会長を励ます会で左、原口さん(二代目)中、下村会長、右、都留正義さん

       九州文化めた人々2  九州磯釣連盟 事務局長 兼 初代北九州支部長 薮田敏郎さん  



   教師のような釣り人 薮田敏郎さん


昭和50年、夏。門司区柳町公民館で熱心に「九州の釣り人は大同団結して一大組織を作ろう」と話す藪田敏郎さんが居た。

小倉石鯛クラブ会長、のちの九州磯釣連盟 事務局長兼 初代 北九州支部長に就任され、磯連本部と支部の基礎を築いた方です。

 「ジョーさん、磯連の投げ釣り部長となって、サーフに力を注いでくれないかァー」と、いつも朱竿堂で小言を言われた。いつも逃げてばかりであったが、人当たりの良い口調は教師のようで説得力が上手い。

九州磯釣連盟北九州支部の「北九州少年少女釣り大会」では、当時の谷伍平北九州市長を招待して、子供達600人、スタッフなど800人規模で、北九州市小倉延明寺臨海公園で開催させた。
これを基にして九州各県支部の「少年少女釣り大会」が、九州各県地域の行政都市と共催して開催されるようになり、今に続いている。

また、釣り人の社会福祉事業として「チャリティ関門海峡船釣り大会」を開催し、釣り魚を地域の養護福祉園などに寄贈する仕組みを作った。これにより釣り人と社会福祉の基礎を作り、平成25年度の今日まで毎年続いている北九州支部事業となっている。その事で福岡県や北九州市等の社会福祉事業団などから多くの感謝状が贈られている。

その薮田支部長が最もパワーを注いだのが海難救助とか、釣り人の海防意識を深める為の海防講習会である。
これは海上自衛隊のヘリコプターや自衛艦まで出動させ、開催させた力量のある方で、九州磯釣連盟の発展に活力と財力を注いだ方である。

しかし晩年は磯連から離れ、「九州ヘラブナ釣連合会」会長の要職を兼ね、私達と少々間をあけたが、大親友の都留正義さんの後を追うように去ってしまった。

                                    
平成5年8月


荒磯釣りの勇猛者でありながら子供達に優しい言葉をかける薮田支部長。
第1回 少年少女釣り大会では当時の北九州市長、谷 五平市長が来賓し表彰式を盛り上げた(写真)、
以後北九州市が共催として北九州少年少女釣り大会が今に続いてる。




九州磯釣連盟北九州支部主催の「少年少女釣り大会」を開催させ、今に続いているアクションプログラムは、初代支部長の薮田さんがリードオフマンとして活力を注いだ。

 

その会場とした北九州市小倉北区延命寺臨海公園は、九州磯釣連盟北九州支部などが精力的に国や県、北九州市へ陳情要請して出来た、初めての海釣り公園を兼ねた海岸遊歩道だった。その事で延命寺臨海公園は10年以上「少年少女釣り大会」が開催された。
平成27年は若松脇田釣り桟橋で開催され38回、38年続いている。そのような礎を築いてたのが薮田俊朗さん、初代北九州支部長でした

          九州文化めた人々2


   九州釣界を牽引された釣り文化人

私達が日々釣りを楽しんでいる影で、たくさんな方々がボランティア奉仕で、活力と財力を注ぎ込み、献身的に九州釣り文化振興の為、活躍されております。

自然界に携わる人々は、その恵みを自然のものと想い、自由に受け止めていますが、その代償は年を重ねるごとに減少し、消えてゆき、自分達の生活を脅かし、また、遊びの世界においても命を縮めています。

地球環境を整え、自然美化を考え、稚魚増殖を増やす努力から、更に万人の人々が自然に優しいハートを持ち、アクションプログラムする、実行することで、人間の未来が見えてきます。「今良ければ」という発想では、次世代の、自然に優しい釣り文化は残せません。

お魚釣りは、優しい自然の中で育まれ、遊び心を膨らませ、人々の心を豊かにさせてくれますから、その釣り文化を大切にしたいのです。

そのようなオピニオンリーダーが、釣り人の為に、献身的に活躍されたことを、ここで紹介しております。





大分の別府荒磯倶楽部 池田幹作先生は都留さんと大親友で、大分県支部をまとめ、県内の漁業、遊漁、釣り人に関係するアクションプログラムに、あるいはトラブルに粉骨努力した方です。

私も随分お世話になりましたが、海洋磯釣倶楽部20周年記念誌発行を凄く応援してくれ、又、お祝を頂いたり、各地域の釣り大会や九州LKG、つり糸の(ゴーセン)会議などで、いつも優しい声を掛けて頂きました。

又、九州石鯛クラブ会長 後藤秀孝さんは、石鯛釣りの名匠でしたが、投げキス釣りの愛好者、しかも海洋磯釣倶楽部とのお付合いを大切にしてくれた方です。

長崎インタサーフの濱崎さんは博多FS平戸大会で、釣り場の案内やポイントをたくさん教えて頂き、また、九州磯釣連盟主催のビック釣り大会ではサーフ仲間のリーダー的な役割を果たし、後継者の若い相良忠宏さん(長崎インターサーフ会長)を育てた方です。

釣界各位の中で、私と海洋磯釣倶楽部を育んでくれた、たくさんの名匠は、皆それぞれに九州の釣り文化を育て、自然界にとけ込んでいった方々です。

そのような方々の意思を継ぎ、私達はもっともっと自然を大切にしたモチベーションを貴め、優しい釣り文化を継承してゆくことを、アクションプログラムしたいと思います。

       九州文化めた人々2  九州石鯛クラブ会長 後藤秀孝さん


  豪快な荒磯の強者 後藤秀孝さんと親しんだ海洋磯釣倶楽部

はじめに平成17年夏、九州釣界に豪快な底物旋風を巻き起こした後藤秀孝さんが去りました。

壇上で勇ましい、男らしさを演出する荒磯の強者、後藤秀孝さんですが、一方では気配りのある優しいハートを持つ情熱旋風は、釣界はもとより庶民的な釣り人から、広く人気があった方です。

サーフを得意とする海洋磯釣倶楽部とのお付合いを大切にしてくれ、温かい声を良くかけてくれました。

その後藤会長を偲んで、平成9年に発刊した「海洋20周年記念誌」の中で、氏から頂いた玉稿をここに紹介します。

尚、稿とあわせてお祝いを頂き、記念誌が発刊されたことを深く感謝いたしております。

                                  
平成18年4月 記  上瀧勇哲








私と海洋磯釣倶楽部 皆さんとの出会い

                   九州石鯛倶楽部 会長 後藤秀孝


今から17〜18年前の事です。
新聞紙上の各大会成績表の中に海洋磯釣倶楽部の名前を度々目にするようになった。

海洋磯釣倶楽部 会員さんとの、釣り場での出会いは、さらに2年後の11月、当時小学校5年生だった次男の秀之が所属していたソフトボールクラブ、到津スポーツ少年団6年生の卒園式を終え、球友ら5〜6名で関門海峡に面した門司新浜岸壁の前で投げ釣りを楽しんでいた時の事。

なにしろサーフはおろか釣りは始めてと言う子供もおり、一通り投げ方を教えて私は車の中より眺めていた。
急潮が右に流れいてる。
その内子供達の竿が引きずられ、右側の釣り人の3本の道糸に次々と絡んでいった。
すると、その釣り人は自分の竿を全部上げたのち、子供達の竿を上げ、車座にして仕掛けやナマリの調整や投げ方の指導など丁寧に教え、当人はさらに右側に移動して釣りを始めた。

一刻ののち、私はその釣り人の所に行き子供達のお礼を言い、ふと腕に縫い付けてある海洋磯釣倶楽部のワッペンが目に止まった。
その釣り人こそ、その後、関門を始め、方々でお逢いしたり、釣り場で並んで竿を振ったり、表彰式場でも度々顔を合わせるようになった浜部辰雄さんであった。

これが縁で現会長の上瀧勇哲さん達も我が家に遊びに来られるようになり、以10数年の永きにわたり息子の孝一共々楽しいお付き合いをさせて戴いている。

さらに幸せな事に、私も海洋磯釣倶楽部の皆さんと同じく、サーフが大好きで、近場では年間を通して関門海峡門司岸壁。太刀浦、下関の長府の一文字波止などで投げ、秋には近隣の河川などに出掛け、気軽にハゼ釣りを楽しんでいる。


   私と対馬

                記・後藤秀孝 
(九州石鯛倶楽部会長)


キス釣りのメッカと言われ、全国サーフマンの憧れの的、長崎県対馬の乗っ込みの肘タタキキスを求めて家内と入島、仁田湾や浅茅湾などで竿を振り、夏には西海岸でファミリーや釣友達とキャンプ、海水浴を楽しむ。
秋には大型の落ちギスやチヌ、小鯛など豊富な獲物でクーラーを満たしてくれる対馬。

通い始めた頃の対馬は比田勝湾の西泊、さらに北上して泉、豊と釣り歩き初日でキス、アラカブ、キュウセンなどで中型クーラーが満杯。さらにビニール袋に入れて持ち帰るほど魚影が濃かった。

泉港でヒットした32.5pは家で測ったもので縮んでいた。豊港では激闘の末、取り込んだ70pオーバーのマゴチ(ハリ掛かりしたキスに食い付いた)には、度肝を抜かれた思い出がある。
だが、2〜3年で獲物が減少、今度は東海岸沿いの舟志湾から琴、芦見、一重、小鹿と釣りをしながら下った。

琴では大型キスを掛け、姿を見ながら足元のテトラポットに持ち込まれた事や、東隣の郷ノ浦の、竹で組んだ桟橋から28〜30p強の良型キスの入れ食いに合い、初日で本虫が無くなった事もあった。

一重港では波止の捨て石際を群れをなして移動する大型チヌを見て、船頭さんからイカのワタを分けてもらい(当時の対馬は多くのイカが上がり、どこの港でもスルメを造るため、ワタなど多量に捨てており、これにチヌが群れていた。
 帰宅を 1 日遅らせて夕方から夜釣りで 2 sクラスのチヌの数釣りを楽しんだ。

昭和48年ごろより西海岸を攻め、佐護港から仁田湾の越高、伊奈、志多留と釣り歩き、大キスのポイント犬ヶ浦一本松の磯にも良く通った。
最近では、その対馬も30pオーバーの肘タタキの姿がめっきり減り、一抹の淋しさを感じるのは私だけではないはずだ。
だが「対馬は私の釣りのふるさとである」 対馬釣行となると心が一段と弾むのも対馬ならではの魅力があるからだ。

春はメジロ、ウグイスの囀り、夏はトンビの舞踊り、秋は澄み切った青空、一足早い紅葉。
国境の島、対馬。私の対馬通い、ファミリーフィッシングはまだまだ続く。

平成9年2月1日 

                 海洋磯釣倶楽部さんへ贈る稿    後藤秀孝



平成9年に発刊した、海洋磯釣倶楽部、「海洋20周年記念誌」、後藤会長よりの、お祝メッセージを紹介します

海洋磯釣倶楽部20周年 祝辞


創立20周年(成人式)誠にお目出度うございます
                                   九州磯釣連盟 相談役 後藤秀孝

海洋磯釣倶楽部創立20周年 おめでとう
海洋磯釣倶楽部がいかに一枚岩で団結し釣界発展に寄与されているかはクラブ機関誌として、すでに127号を数える「海洋だより」を見ても一目瞭然である。
さらに次代をになう若年層の育成、釣り場清掃、各種の大会開催など釣界の未来を睨んだクラブ活動は驚嘆の感がある。
これからの釣界は獲物の減少や釣り場の規制、釣り場の汚染等むつかしい面が多々有りますが、皆さんの更なる団結と行動力、ボランティア活動を通し釣界発展の為リーダーシップを目指し、力を合わせ前進される事を期待致します。

成7年7月


       九州文化めた人々2  九州磯釣連盟 小倉地区長 吉田智之さん


   思いやりと優しさを兼ね備えた 吉田智之 小倉地区長
さん

同じ印刷業界を携わった人、そして会社経営者としてのアクションプログラムは常に前向き、吉田さんのハートは多くの人々から愛され、想われ、仲間の絆をより一層深めたお世話係する人だった。「上瀧さん」と、言葉を良くかけてくれた優しい会話は、大柄な吉田さんに、似合わない。そんな釣り人がいつの間にか静かに去ってしまわれた。



1987.4.九州磯釣連盟小倉地区長会議にて吉田地区長&(財)日本釣振興会九州地区支部会議であったり、小倉地区会議等の取材で、良く顔を合わせた。時々電話をもらうこともあり、近くに住んでいることで気ずかいを良くしてくれた。
後藤さんの勧誘も多くあり、吉田さんとともに小倉の銀座にお伴したことも良く会った。




        九州文化めた人々2  九州磯釣連盟 副会長 打越豊一さん

  日本海軍特別航空隊所属 航空特攻隊員 打越豊一さん

平成19年12月 全九州釣ライター協会からFaxが入った。その内容は、打越さんの死去を知らせるものでした。一瞬、打越さんの姿が脳裏を駆け巡り、ライター協会の総会や、九州磯釣連盟の総会で優しい笑顔と温かい握手を想い浮べます。
あの偉大なる方が去ってしまう予感はあったけれども、こんなに早く逝かれるとは想ってもないことでした。

ここで、あえて打越さんを紹介させていただきますが、私の稿の中では、私と海洋磯釣倶楽部の繋がりだけを太く、手短に紹介します。
なぜなら、打越さんという人物は「釣り」だけではとらえられない歴史的な知名人であった人なのです。その意味で、私等とうてい紹介しきれる方ではないということをまず知ってほしいと思います。


 優しい温厚な釣り人

昭和50年代に入り、月刊 釣ファン投稿執筆者の中で若者を対象にした「ヤング鬼笑会」が結成されます。
その創立メンバーになぜかしら私も登録され、島本 修ちゃんが早速、皆を引き連れトップ一枝釣具店で鬼笑会のヤッケ(ユニフォーム) を全員作りました。

そのメンバーを引率する木原さんは、若松磯釣倶楽部の会員さんで、底物から上物までなんでもヤル人で、四国武者泊から五島の宇久島まで様々な釣り場を案内してくれました。

その中で五島方面はいつも博多駅ビル「割烹 ひかり」が入っていました、打越豊一さんがこちらの釣り情報に詳しいし、時々の案内人となり釣行を共にしてくれたのです。

それからの出会いと、九州磯釣連盟本部の海防部長として、北九州支部・海防講習会には講師として度々お話しをされ、私達は随分、勉強します。

平成年度に入り、海洋磯釣倶楽部の「大分県坂の市15周年記念大会」に博多フレンドサーフ 梅原会長と一緒に来てくれたこと。
これが海洋磯釣倶楽部と梅原会長、打越連盟本部副会長と最初の出会いでした。

このときは、九州磯釣連盟 大分県支部、広報部長 野村美智雄さん以下、彼のクラブ員や、博多フレンドサーフ会員も多く参加し60人以上の盛大な大会となり、運営する私達を慌てさせた経緯があります。

その次の年から博多フレンドサーフが毎年開催している「平戸島大物投げ釣り大会」に参加し、打越会長が相談役となっている同クラブの大会には、いつも御大が居て、気安く声を掛けていただき、上瀧さんが30pのキスをいつも釣ってくるので「一度、私も尺ギスを釣ってみたい」と、会うたびに話されます。

同行している武原連盟本部副会長も同感の様子で、この前は私が釣ったシロキスのサシミを即効で食べてもらったことや、77歳の誕生日に打越さんが欲しかった投げキス専用13Lクーラーをプレゼントしたりの交遊がありました。

又、師から海洋の20周年記念誌発行の稿や、お祝いを頂いたり、連盟総会や表彰式、ビック釣り大会等で、いつも必ず一声挨拶をいただき、妻ともども可愛がってもらったこと再々ありました。

九州釣界の大物釣り師として、あるいは海外の磯からトローリング、ブルーマリンをこよなく愛した人。そして、自慢話しの一つでもあった、海軍航空隊の特攻隊員志願兵として、終戦を迎えたこと等、師の人生観は私達釣り人も含めて、大きな感動を与えてくれました。
打越豊一さんを偲び、安らかにおやすみ下さい。

平成20年1月


九州磯釣連盟 定期総会のち、割烹ひかりで懇親会。同じ日に博多フレンドサーフ20周年のお祝を梅原 昌会長、打越豊一顧問へプレゼントしました。

   海洋磯釣倶楽部20周年 記念誌 お祝いメッセージ
   九州磯釣連盟 バリ島釣ツアー


                           九州磯釣連盟 副会長 打越豊一

貴クラブ20周年記念誌発行されるとの事、大仕事ですね。貴殿なら出来ると楽しみにしています。
九州磯釣連盟若手の育成に日夜頑張っておられる姿勢を嬉しく思います。
私も毎日雑用(酒のみ)に追われて居ますが、つりもバリ島釣旅行二泊三日
カッポレ 20K・43K・46K 計3
ア  ラ 20K・55K     計2
釣行者全員でつり上げました。バラシなし、さすが九磯連の強者!!
帰国して日韓親善釣り大会1045日、対馬で盛大にやりました。
ついでに6日、梅原(博多フレンドサーフ)御大と大船越、(つりの家)一帯でキス釣り小漁でした。
本番の11月、九州磯釣連盟主催の大きな大会(スーパービック)がひかえていますと共に頑張らなきゃあ!!
その前に釣春秋の石鯛選手権1025日、五島一帯。11910日、
9回 全国健康福祉祭みやざき大会(日本釣振興会主催)フィッシング交流大会(キス・グチ舟釣り)スケジュールが一杯で梅原さんに仕掛けを頼んでいます。

海洋磯釣倶楽部の皆さん今後ともよろしく

平成7年7月1日

この稿と共にバリ島の写真が20枚ほどありましたので、海洋磯釣倶楽部20周年記念誌に記載しました




       九州文化めた人々2  九州磯釣連盟 三代会長 下村要一さん

  九州の釣り文化を貴めた人々
九州の釣り人は一つ、九州磯釣連盟を育てた釣り人

  九州磯釣連盟3代目、会長 下村要一(福岡県北九州市)

昭和524月、九州磯釣連盟は北九州市小倉、九電記念体育館で総会が開催されました。初代会長は都留正義さんで、ときの有名スターが20数名、九州各県から選出されました。その中で私が所属する海洋磯釣倶楽部も創立倶楽部として参加。このとき山口県を含む九州各支部で6000人あまりの会員だったでしょうか。海洋磯釣倶楽部は、北九州支部、若松地区18クラブの中で行動を共にする事になります。地区長は若松磯釣倶楽部、会長の伊藤さん。その若松磯釣倶楽部の中に下村要一さんがいました。このときは若者を束ねるリーダーが若磯に居るという話しを聞いていましたが、その下村要一さんの存在すら全く知らない私でした。

その数年後でしょうか、あの名門、若松磯釣倶楽部が分裂し、九州新潮会が誕生しました。会長は下村要一さんだったと想います。
若いチームリーダーには当然、若者が集結し、福山和幸さん、坂本敦俊さんなどの若いリーダーが加わり、九州新潮会が各県支部にも一気に誕生してゆくプロセスに、私達は驚きます。
そして三代目、九州磯釣連盟 下村要一会長となり、熱いハートで磯連の改革にもオピニオンリーダーを発揮され大活躍されました。最大の功績は、共済保険という制度を立ち上げたことです。下村会長だから出来たことを私達は知っています。ご存知のように九州磯釣連盟の運営は、全てがボランティア奉仕の元で、選りすぐりの会員さんが一生懸命、会員さんのお世話係をされています。そのトップリーダーが20数年間、会長を勤められ、九州釣界を盛り上げられた功績は絶大なものといえるでしょう。
もう一つ、下村会長が始めた、BIG釣り大会は、当初は優勝者にスズキジムニーとかの自動車。それにバイクが67台などのスポンサーがあり、それは凄いBIG釣り大会でした。しかも、その大会は無料!! という、夢のような大会に、私達は多く参加しましたね。
そのようなプロモーションから、テレビの「釣りキング」には、自ら出演し、九州釣界のキングとして承認されました。そして、子供達が通う、スイミングスクールの理事として、(公財)日本釣振興会、高宮俊諦さんとの親交で、スクールの子供達、数百名を招待した釣り教室を毎年の9月に鐘崎海水浴場で開催。指導員の私達は大勢でお世話係しましたね。最後にゴミなどを拾うような清掃美化活動まで含めたプログラムを下村会長としたことを想い出します。
石鯛マンの会長ではありますが、磯のクロ釣りから船釣り、そして子供達と遊べる庶民派的な一面を持ち、テレビ、ラジオのメディアから、行政、釣具界の、全ての釣り文化を兼ね備え、トップリーダーとしてアクションした釣り人は、下村要一会長ただ一人。「九州の釣り文化を貴めた」釣り人を代表していただいたことを、私の心の筆で紹介させて頂きました。
2019.4.
                       九州磯釣連盟 海洋磯釣倶楽部 上瀧勇哲


       九州文化めた人々2  九州磯釣連盟 二代北九州支部長 松井睦明さん

  九州の釣り文化を貴めた人々2  おっとりした兄貴膚松井睦明さん
               九州磯釣連盟 北九州支部、中間石鯛クラブ会長
                         松井睦明さん (第二代、北九州支部長)


今年(令和2年)5月28日、突然、我が家に九州新潮会、坂本敦俊さん(九州磯釣連盟 副会長)と、平嶋角男北九州支部長さん、もう一方、九州新潮会○○さんが来ました。ちょうど家の外廻りの県道、歩道の美化作業を洋子ちゃんとして、やっと作業が終わった、昼過ぎに来たのです。携帯電話したそうですが、あいにく持ってなく失礼しました。
いきなり賑やかしい方達がやって来て、久しぶりに我が家に笑い声が戻ってきました。
1時間ほど阪本さんのペースでおしゃべりが、いつものように続きましたが、その中で私が発行している「機関誌サーフメイズJAPAN」のような新聞を、九州磯釣連盟も、作りたい内容のお話しがありました。
そして、その昔、九州磯釣連盟の発会式があった昭和の時代からの話しが始まりました。当時、九州磯釣連盟の広報部長していた小路 隆さん()が精力的に「機関誌 九州磯連だより」を、発行され、5〜6年続けられました。
当時は56000人の会員さんがいた時代です。平成に入り、私も小路隆さんを見習い「機関誌 北九州支部だより」を6年間発行に勤めました。そのキッカケは、私が所属する北九州支部 若松地区長されていた福山和幸さん()が「二代目、松井睦明支部長の補佐を、してもらえんやろか」から始まったのです。 若い30代の私は、初代の薮田敏郎支部長()から、さんざん可愛がってもらっていたので、今度の二代目、松井睦明支部長には、その恩返しを、したい気持ちがありましたので、快く引き受けました。


北九州支部 前支部長 「松井睦明さんを労う会」にて、下村要一さん、(公財)日本釣振興会 高宮俊諦さん、松井さん、都留正義さん、小路 隆さん、後藤秀孝さん
北九州支部の広報部長とは、支部のPRする事ですが、その決め手となるものがありません。
何より求められるのが、支部の会員を増やす、ことが最大の目的です。
それで、私の方から松井支部長にお願いして「機関誌 北九州支部だより」を勝手に作らせて、いただきました。もちろん今まで、支部が発行する新聞はありませんから、支部の予算はつきません。全て私のボランティアになります。
原稿作成から編集、製作、印刷所、発行、新聞配達、全て私一人でヤルことになりました。その中で一番困ったのが資本金です。
これは広告を頂いて、その収入で発行する事が、ごく当たり前という事を、私の師匠である「全九州釣りライター協会 事務局長 小路 隆さん」のお話しで、
「上瀧くんがガンバルなら広告を探してヤル」とかで、「つりエサの三太郎」さんを、紹介していただき、早速、犀川町にある会社に行き、若社長と毎度、発行の3千円の契約をしました。そして八幡地区の、正立ウキ社長の安部さんからも3千円の広告契約からスタートしました。これらの営業から始まり、B5判、16Pからスタートしました。
家のワープロで原稿を作り、そのまま印刷所で写真を加え、コピーのような状況からスタートです。全てを印刷所に注文すると、10倍くらいの見積金額になるのです。足りないお金は全部ボランティアしました。


九州磯釣連盟10周年記念パーティ 左、全日本サーフ・北九州協会長 金田厚さん、松井さん、都留正義さん
そのような「機関誌 北九州支部だより」の発行を、年4度ほど発行していると、松井支部長や下村要一連盟会長から「上瀧くんが苦労している」とかで、つり具のポイントの潟^カミヤ高宮俊諦さん。樺゙研の田中栄一さん。潟{ナンザの岡本馨さんからも、広告が頂けるようになり、やっと赤字から脱却できました。その上で松井支部長はもとより下村要一会長へ原稿依頼とか、当時九州磯釣連盟 に参加していたジャパン・ダイナミック磯釣連合の高園 満さんなど、たくさんの方々に原稿依頼しました。一番多く登場したのが、九州磯釣連盟の事業部長兼、副会長をしていた打越豊一さんでした。
そのような事、何もかも私一人でやっている事でしたが、広告収入がある事で、宅配、郵送もでき、広告収入、印刷所に支払う代金の領収証などで、金銭面は全て支部の総務部長が管理する事になりました。ここまでは良かったのですが、松井支部長が何かの理由で引退され、大川支部長の時代に入ると、ますますもって「支部だより発行」が難しくなってきました。新聞発行部数2000部でしたが、一人で何もかも、全てがボランティア。妻の洋子
ちゃんに大変迷惑をかけました。そのような苦労とは裏腹に、行動半径の広さに加え、新聞発行につながる作業と時間、そして自己負担は大変なもので、この事の理解がない事で、私は次の年、広報部を辞退しました。このようなことを書くのは始めてなのですが、松井支部長の側近で勤め、出来る限りサポートしてあげたいハートで、随分、支部長の家に訪問し、海洋磯釣倶楽部の大会にも松井支部長が特別参加とか、中間石鯛クラブの大会にもオブザーバーで良く参加しました。
これ等も松井さんが兄貴肌の優しい思いやりがある方でした。時々、沖で取れた正月用の10Kクラスのブリを届けてくれたり、食事に誘われたり、それは弟を可愛がるような松井さんでした。

その事で、私も一生懸命6年間「支部だより」発行できたのです。ねぎらいのハートがあってこそ、下支えする部下とか、お世話係が成り立つものです。その事で九州磯釣連盟の下村要一()会長にも、すごく大切にされ、妻ともども良く遊んでくれました。
一番の想い出は、たまたま出くわした長崎県対馬浅茅湾のチヌ釣りです。
民宿・釣研丸で、下村要一会長と、ご一緒した事ですが、この時は洋子ちゃんと夫婦の釣りでした。また、田中栄一さん、その奥様も、ご一緒でしたから楽しいチヌ釣りができました。そのとき頂いた釣研ウキ10個ほどを、今も愛用しています。釣研丸の中村船長さんは、ご夫婦で今は徳之島へ移住しました。


北九州支部総会にて松井睦明支部長、クラブ対抗表彰、(公財)日本釣振興会 九州地区支部 会議の松井睦明さん、座長の高宮俊諦さん
始めに戻りますが、三年前の夏、久しぶりに中間市の松井さんの家に行くと、留守でした。
仕方ないので、近所の町内会長さん家に行くと「今、中間病院に入院して、娘さんは仕事で昼間は居ない」。そしてショックだったのは「上瀧さん、松井さんに会っても、認知症で話しができないよ」と言われました。それで洋子ちゃんと相談し、出直す事にしました。
近くに、樺゙研があるので、ときどき「機関誌 サーフメイズ JAPAN」の、新聞を持って、(公財)日本釣振興会の井上達夫さんに届ける事していますので、無理して行かなかったのです。
そして、昨日の坂本敦俊さんから「松井さん、亡くなったよ」で、ショックを受けました。
竹原保義さんと一緒に、葬儀に行かれた、とかの話しでしたが、あのような親しい兄貴分の石鯛マンが、そんなに早く行くとは考えもしなかったのです。

九州磯釣連盟北九州支部 新春定期釣り大会 各部門優勝者、左 ジャパンダイナミック戸畑 高園 満さんほか、(公財)日本釣振興会紫川掃除美化、北九州支部役員
エピソード1.  私と松井睦明さんの最初の出会いは、北九州市小倉、井筒屋デパート6Fホールで、九州磯釣連盟 北九州支部 主催の「釣り展」が、土曜日と日曜日の2日間開催されました。昭和50年代のころです。初代の薮田敏郎さんが支部長のときです
「ジョーさんも一つぐらい講義せなー、イカンょ」という事で、無理やり100人ほど集まった会場で「関門海峡の投げ釣り」というテーマで1時間、講義しました。その前に講義したのが、あの中間石鯛クラブ会長の松井睦明さんでした。のちの二代目支部長なのです。
このとき松井さんは、磯のクロ釣りの講義をされ、皆から拍手喝采がありました、私の時は、よく覚えておりませんが、少なかったと想います。そのぐらい、ゆったり分かりやすく、優しく説明する松井睦明さんの講義は「さすが」と想いましたね。

初代の薮田北九州支部長は、九州磯釣連盟の 事務局長を兼任していましたので、初代、都留正義連盟会長とWコンビで磯連の発展に多大な功績を5年ほど勤められ、そのバトンを松井さんが引き継ぎ、10年ほど支部長されました。その途中に私が広報部の役目を果たしたのです。当時は支部会員950名から段々と会員が少なくっているので、そのカバーの要請が私でした。
そのような九州磯釣連盟 北九州支部の執行部としてのお世話は、九州石鯛クラブ会長の後藤秀孝さん()とか、息子さんの孝一くん。八幡地区、筑豊地区、門司地区、そして小倉地区の会議にも取材で良く行きました。本当に若い40代の私はガンバリました。それも松井支部長あっての北九州支部と言う強い想いがあり、また、前 都留連盟会長や薮田敏郎さんから「ジョーさん、ジョーさん」と可愛がられた30代からの九州磯釣連盟 の黄金時代でもありました。
それを背負った、引き継いだ松井睦明さん。私の兄貴のような方が去ったことを、このような形で報告させて頂いております。

(公財)日本釣振興会主催の「水辺感謝の日」は、右端の松井睦明さんをリーダーに毎年 支部会員100名が若松響灘の釣り場掃除をしました

エピソード2.  初代の薮田支部長が始めた「北九州少年少女釣り大会」を、松井さんが引き継ぎ、プレッシャーを感じた松井支部長を、筑豊地区はもちろん若松地区など、各クラブの会長さんが応援しました。そして支部の目玉の一つである、毎年開催される関門海峡の「チャリティ船釣り大会」は、10ハイほどの遊漁船で参加した支部会員の釣好の一部を、門司区の天使育児園に寄付する社会福祉事業でした。広報部を担当している私は天使育児園にイーグロクーラー3杯満タンの魚を持って皆と行くのです。
関門釣友会 会長の清家康二さん()が、いつもいましたが、彼の家の近くに天使育児園があるので、親しい園長先生との仲を知りました。もちろん松井睦明さんが園長先生、そして子供達との絆関係を「機関誌 北九州支部だより」に良く記載しましたね。



北九州支部懇親釣大会や関門海峡チャリティ船釣大会、社会福祉事業も積極的した松井睦明さん小路隆さん

積極的に頑張る松井支部長の背中を見て、どのぐらい、たくさんの浄財を負担しているかを後で知る事になりますが、トップリーダーを知る事は、そのアクションを共にする事で分かります。
松井さんは中間市役所、水道課に勤める課長から、さらに部長となった公務員です。お付き合いする度合いで、松井さんファミリーが優しく接してくれる事に感謝しながら、釣り人のお手本みたいな方でしたから、私もそのような気風をマネする事を良くしました。
他人様の悪口を言わない、ホメ言葉に、聞き役に徹した北九州支部の執行部会で、その人柄が良く分かります。いつも落ち着いた口調で、最後にまとめるのですが、趣味の魚釣り集団には色々な釣り人、考え方をする釣り人も多く、執行部の中で、自己中心的に考える方がいると大変です。でも、優しさと愛情を持ち、素直なハートで聞きながら、ポートフォリオできる松井支部長は最高の支部長でした。

九州磯釣連盟 ビック釣大会にサーフ参加の松井睦明さんと中間石鯛クラブの植木さん平戸根獅子港、お世話係、海洋磯釣の上瀧哲郎さん、洋子ちゃん

エピソード3.  筑豊地区、中間石鯛クラブといえば、てっきり底物集団かと想えば、意外とウキ、フカセ釣りのクロ、チヌ釣り、そして波止釣り大会を良くしていました。そのような釣り大会に数度、招待されました。大分市の乙津波止がホームグランドとかでしたが、支部長と一緒のチヌ、クロ釣り。会員の皆さんは、魚の切り身や赤貝で、波止からサンバソウ、カンダイを10枚、20枚、釣っていました。釣りきらなかった私ですが、それでも参加者全員に賞品があるのですよ。毎回です。
サーフ主体の福岡支部の博多フレンドサーフ、梅原 昌会長の30回以上続いた平戸大会でも、参加者全員に、お米などの賞品があります。そのような釣りクラブの気風を知り、海洋磯釣倶楽部の大会でも、参加者全員に賞品がある、格差のない釣り大会としました。
中間石鯛クラブ会長 兼 北九州支部長を兼ねた松井睦明さんの人柄が、支部の釣り大会にも反映されていた事を紹介しておりますが、九州磯釣連盟の会員を大切に想い、気配りしながら会員の増強と、これからの若人を育てて、いたんだ!! と、想うのです。


ビック釣大会にサーフで参加の松井睦明さんと山口県支部長 田村さん、そして洋子ちゃん、海洋磯釣倶楽部の菊地さんは石鯛の部 準優勝

まとめ  北九州支部の広報部を担当し、「北九州支部だより発行」で、忙しい6年間でしたが、その取材活動の中で、潟^カミヤ、高宮俊諦さんの紹介で、全九州釣りライター協会の会員になりました。合わせて、(公財)日本釣振興会の会員として、あるいは(公財)日本釣振興会 福岡県支部のリーダーとして田中栄一さん、信岡武昭さんと一緒に、釣り振興会にたずさわりながら、九州磯釣連盟との繋がりを、更に深める活動が始まりました。間を取り持つ松井睦明支部長さんの影響が多大あるのですが、私がこのような文責を書けることは、全て北九州支部の広報部から始まったと言えますし、下村要一連盟会長との関係も、更に深められ「九州の釣り文化」の礎を築いている九州磯釣連盟の活躍の道しるべとして、後世に伝えたいと想います。ありがとうございました。そして、お世話になりました、松井睦明北九州支部長さん。


全九州釣りライター協会20周年記念に松井睦明さんと大分県支部 豊田和成さん。若松地区大会の福山和幸さん

九州磯釣連盟 北九州支部 海防講習会で本部から来賓の打越豊一海防部長、松井睦明支部長

私事ですが、平成最後の31年、正月に私、前立腺癌手術をしました。しかし、その手術に於いて腸と尿道が繋がり、「尿道直腸瘻」という病気、イヤ、手術ミスがありました。それで入院、退院を繰り返し、とうとう手放した新行橋病院が「小さな穴なので、いずれ治るでしょう」ということで、昨年の5月10日退院。しかし、そんな簡単な事でなく、令和に入り、通いの井手口病院長にお願いして、九州大学病院へ検査入院しました。このとき、その病院でまさかの上田 敬さんとお会いし「奥さまが入院」とか聞きました。そして、再入院した9月30日、九州大学病院で手術。1021日、退院療養しながら、令和2年2月末、再入院。3月、元の身体に戻す手術。3月20日、退院療養ということで、4月、5月の再診で90%、元の身体になりました。
その間、病気と闘いながら魚釣りも少し、しましたが、入院中に大好きな福山和幸さん。続いて下村要一会長が去り、松井睦明さん。そして大親友の清家康一さんが年末に去られた事を、今年の賀状で知る事になりました。本当は、お別れしたかった。しかし、この状況では行けませんでしたので、タイミングを見て、お盆にお参りをする予定です。
その上で各種のイベント、総会や釣り大会等の参加が、昨年は出来ませんでしたが、今年は体力増進しながら、出来るところで、出来るだけ参加と「新型コロナウイルスに敗けない」最新の注意をはらい、令和というイヤな時代を乗り越えたいと考えます。
                                        2020.8.


         九州磯釣連盟 北九州支部 若松地区 海洋磯釣倶楽部 会長 上瀧勇哲
ホームページ「上瀧勇哲のホ−ムスタジオ」から九州の釣り文化を貴めた人々」120リンク5000


毎年開催されていた博多フレンドサーフ主催の平戸大物大会には、梅原 昌会長そばに打越豊一さん、大親友の清家康二さんがいます。海洋磯釣倶楽部の浜辺辰雄さん準優勝。そして参加者みんなに賞品がある大会は、海洋はもちろん、九州磯釣連盟に所属するサーフ主体の長崎インターサーフ、関門釣友会、九州磯釣連盟の岩佐重則さん、武原保義さん等、多くの役員さんが参加しました


ワープロ、フロッピー時代の「機関誌 北九州支部だより」発行していた趣味の仕事場。合わせて「機関誌 海洋だより」も製作していた北九州市小倉南区志井の家は30〜40才代で、洋子ちゃんに大変迷惑かけた時代でした。

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           九州の釣り文化を貴めた人々 2
第二部 九州磯釣連盟の恩師

        エピソード・配信 海洋磯釣倶楽部 上瀧勇哲