九州の釣り文化を貴めた人々2 1969〜2023 第一部 海洋磯釣倶楽部 発祥の地 江藤のおじいちゃん 若松 はまや釣具店 先代店主 |
写真中央、江頭のおじいちゃんと奥さま、1985.5、海洋10周年大会にて。新しい「はまや釣具店主」2代目江藤さん。
江藤のおじいちゃん 若松 はまや釣具店 先代店主
会社の釣り同好会が組織され、頻繁にお世話になる若松区大井戸町の「はまや釣具店」さんとは昭和40年代からお付き合いがある。
小さなお店であるが゛、活きの良いモエビと虫エサは釣り人から信頼され、週末の夕方になると店の中はごった返すほど盛況があった。
店主の江藤さんご夫婦は、あまりにも歳が離れていたので、当初は、おじいちゃんと娘さんがお店を切り盛りしていたと勘違いした。
若奥様の愛想の良い商売上手は、釣り人達のマドンナであり、おじいちゃんは20代の私を、何ゆえか可愛がってくれた。
「金にならない活きの良いエサ?」「秘伝の釣り仕掛け」「釣りの穴場」をたくさん教えて貰った。
その落ち着いた口調で、ゆったり分かりやすく説明してくれるし、商売人でない気質は若奥様と二人で似合っていた。
海洋磯釣倶楽部の大会にはいつも賞品の寄贈はあるし、10周年大会にはご夫婦で参加をしてもらい、お店の記念売出し日には印刷会社のチラシ作りから販売までのお手伝いを随分させてもらった。
そんなお店も、新しく新店舗を建てられ、神戸より帰ってきた息子さん一家に店を任せ、ともに過ごされた一時は楽しかったに違いない。
昭和から平成に変わり、新しい店舗に海洋磯釣倶楽部の看板を掲げ、毎月の常会を、お店で出来るぐらいの交友を息子さんご夫婦の好意でさせて頂き、様々なイベント行事にご協力頂いた。
又、有名な「若松浜磯会」や磯釣り倶楽部 仙人会、若松坊主会さんの看板を掲げていることで、お店を基点にした親交が今でも続いている。
しかし平成18年、時代の波についてゆけず、静かに閉店させ、今はご夫婦で仲良く二島の新居地で暮らしている。ちなみに先代の若奥様は福岡市内のホームでお元気で暮らしている。
昭和44年から平成24年
1985.5、海洋磯釣倶楽部の10周年記念大会、若松ひびき灘、安瀬埋立地で一般参加者150人で開催した
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ダイナミック磯釣り連合発祥の地 若松 矢野釣具店さん
昭和40年代の若松には区役所前の伊木釣具店さん、はまや釣具店さん、そして矢野釣具店さんが最も勢いのある人気のお店であった。そのどちらもお世話になったが、中でも矢野釣具店に事務所を構えるジャパンダイナミック磯釣連合の勢いは凄まじかった。
全九州釣ライター協会の小路先生や田中釣心先生が、このお店に来られたり、近くのレインボープラザ(公民館)には、おふた方の釣り講座が毎週催され、海洋の会員さんも随分通った。
店主の副島さんから、がま磯ロッドを破格の値段で頂いたり、浜町公民館のセールには仲間達と良く通った。
そのお店も副島さんを亡くし、響町に移転し、イレグイFCとして若夫婦が盛況を得ていたが、平成25年静かに店を閉じた。
昭和45年〜60年代
1978.7.北九州市戸畑市民会館で表彰式は九州磯釣連盟釣り選手権大会で入賞した、保里会長と海洋磯釣倶楽部の会員と小路会長と
1983.6、九州磯釣連盟、若松地区主催の若松ひびき灘一帯釣り大会、16クラブ、240名参加。連盟から小路 隆 広報部長挨拶、
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若松磯釣倶楽部 育ての親 福浦朱竿さん
九州磯釣連盟北九州支部若松地区大会で挨拶する福浦さん、その周りに若松地区各クラブ会長、左、原口久雄 九州磯釣連盟副会長などオピニオンリーダーが揃う表彰式は活気が漲っていた。
妻の幼なじみの徳王裕子さんが勤める会社社長が、かの有名な福浦朱竿さんであった。
月刊 釣ファン誌で紹介される師の記事や九州磯釣連盟相談役としての活動、色々な釣り大会等で挨拶される度に遠くから、お顔を拝見していた。又、若松磯釣倶楽部の事務所がある伊木釣具店の「親睦会」にも席を置いていたので、私の師匠である空閑さんと入会し、若松敬竿先生や木村歯科の釣りキチ先生のすご腕を、とにかくそばでいつも見ていた。
特に厳寒期の筑前大島外波止から港内を二段ウキで静かに釣っていた福浦朱竿さんの竿が究極なまでに曲がり、身動き一つしない手さばきでタモ入れしたチヌは3枚。あの時、あの姿を今でも忘れない。
そして九州磯釣連盟 若松地区大会の表彰式に於いて一人静かに周辺のゴミを拾い、ご自分のバッグに詰め込む姿を見て、改めて氏の釣界によせる気持ちを知った。しかし、師が、まさか若松の海で亡くなるとは夢にも想わない出来事だった。葬儀で知る、師の偉大さを感じ、感情を抑えきれない多くの釣り人が泣いた。
昭和58年頃
九州磯釣連盟北九州支部若松地区大会で挨拶する磯連二代目会長 原口久雄さん、毎年開催しているこの大会から多くのリーダーが育つ。
1981.6、九州磯釣連盟、若松地区、夜釣り大会。福浦朱竿さんからトロフィを授与される若松坊主会、片桐さんら入賞者
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名門 若松磯釣倶楽部を慕う 伊藤喜啓さん と 伊木釣具店さん
九州磯釣連盟が発足し、初代 若松地区長に若松磯釣倶楽部の伊藤喜啓さんが就任された。
そのお店を持つ料亭「伊藤屋」には釣り人集団がいつものさばり、週末はごった返すほどの盛況があった。その店や若松文化体育館で、地区長会議の開催があり、私は度々海洋磯釣倶楽部
保里剛太郎会長のお供で良く通った。
温厚で人に優しく、気配りのある伊藤さん人気は凄いものがあり、同じ若松磯釣倶楽部の若松敬竿先生とは大の親友で、店の伊藤屋は弟子の若者でいつも埋まっていた。
九州釣界の中でもトップクラスの若松磯釣倶楽部は有名なスターを数多く産出するところに福浦朱竿、伊藤喜啓、若松敬竿さんの力量が多くあった。 その伊藤さん、40代の若さで亡くなってしまった。
その若松磯釣倶楽部の事務局である伊木釣具店は、私が勤める吉田印刷所から歩いて15分ほどのところにあり、店の奥で留守番している、おばあちゃんから手作りの貼り絵の色紙を良く貰った。
伊木の親父さんも名門若松磯釣倶楽部の要職にあり、このお店で若磯の常会から若松地区長会議等で随分通った。
しかし、平成年度に元気の良い親父さんを亡くし、店が消え、若松磯釣倶楽部も下村会長を要す九州新潮会と分かれ存在が薄れた。
昭和52年〜平成6年頃
九州磯釣連盟北九州支部 若松地区大会で挨拶する九州磯釣連盟 二代目 原口久雄会長、そして事務局長の下村要一さん1982.7.,
1981.6、九州磯釣連盟、若松地区、夜釣り大会。小路隆、九州磯連広報部長(兼)副会長挨拶
1980年代から2010年まで若松地区長が7代にわたり変わり、若松響灘の大会が多くあったが、会員が110人、支部と合わせて140人となり大会の内容が変わった。
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黒鯛に恋した釣り人 若松敬竿さん (山本敬三)
敬竿さんと始めて会ったのは1970年ごろ。勤めていた北九州市若松、吉田印刷所社内の上司、空閑主任に誘われて区役所前の伊木釣具店が母体の「親睦会」に入会したのがきっかけ。
その会に若松敬竿さんはもとより、あの有名な福浦朱竿さん、駅前の木村歯科院長や伊藤喜啓さん達が居て、とにかく、この会はそんな人達を交え、和気あいあいの賑やかな会だった。
その当事の私は、まったくウキふかせ釣りが分からない初心者であったが、遠くから有名人達の釣りを見ているばかりであった。もっとも、その人達がかの有名人とは全く思ってない若い私でもありました。
それが昭和51年、海洋磯釣倶楽部を結成、52年に発足した九州磯釣連盟に入会し、北九州支部、若松地区所属の中に若松磯釣倶楽部、そのクラブが九州釣界を代表するクラブで、代表世話人の中に福浦朱竿さんや伊藤喜啓さん、顧問に若松敬竿さんがいることを知ります。
そして身近に感じるようになったのは、月刊 釣ファンの雑誌の中で、敬竿さんの投稿記事が評判で「二段ウキ釣り法」「チヌ釣り大全」等という書籍を書く、凄い人が私の家(吉田印刷アパート)の近くに住んでいることを改めて知るのでした。
しかし、私の釣りスタイルの中には、その偉大な釣り法は番外でしかなかったのです。
投げ釣りをメーンに活動しながら、私も月刊 釣ファンへ投稿するようになりますが、その中でも、若松敬竿さん人気はものすごく、チヌ釣りファーンの憧れの人だった。又、島本修一さんがリーダーとなり、無理やり入会されて、ヤング鬼笑会が結成されます。それで磯釣りをしていたころ、噂の敬竿さんから二段ウキの使い方、アドバイス、師匠とする弟子が何人もいて、とにかく人気の敬竿さんでした。
平成に入り、敬竿さんご夫婦が、なぜかしら月刊「 釣ファン」の社長。編集長の敬竿さんに原稿を持って行く度に、温かいおもてなしを受け「投げ釣りは上瀧さんだけがたよりです」と良く言われたものです。そして、こんなにたくさん稿料を貰って良いのだろうか、と思うぐらい頂きました。
敬竿さんの魅力は、身長180pぐらい、プロレスラーのような体格ですが、ユーモアを交えた話しぶりと、ゆったり、落ち着いた会話に引き込まれてゆく丁寧な言葉遣いに、あの豪快な石鯛釣りとか、微細なチヌ釣り師とは思いもよらない人でしょうか。
人を虜にする!!人間って、世の中多くは居ませんが、敬竿先生の魅力に引かれた釣り人がチヌ釣りの神様あつかいにするのは、こんなところから感じているのかも知れませんね。
そのような敬竿さんが、いつの間にか引退され、若い経営者に引継がれます。その後、敬竿さんとのお付き合いが、とだえ、釣界から引退されたと下村要一会長から聞くことになります。
九州釣界には、多くの先輩諸氏が居て、道筋を正しく整え、方向性をしめし、釣界のありようと、これからの釣りビジョンとは何か、を教えてくれました。そのテーマを九州釣り文化人の方々が熱い想いで示してくれています。
敬竿さんの釣り人生は、釣りスタイルを極めた「究極の釣り人」「釣り大学の教授」に例えられます。私はその学校で学ぶ生徒の一人だったかも知れません。
敬竿さんの釣り人生は、私達、釣り文化人が目指す生き方でもあり、「釣り心」をこよなく愛し、深く探求するハートの中で、思いやりとか優しさを、たくさんの釣り人に分け与えながら、自己の人生を全うした方ではないでしょうか。静かに去られた若松敬竿先生のご冥福をお祈りします。
平成20年12月
平成7年7月に海洋磯釣倶楽部創立20周年記念誌を発行しました、その時に頂いた若松敬竿先生のメッセージ文を紹介します |
海洋磯釣倶楽部20周年 祝辞 月刊 釣ファン 主幹 若松敬竿 海洋磯釣倶楽部が創立20周年を迎えられたのだそうだ。 心からお目出度うを申し上げたい。 釣りクラブと言うのは、つくるのはわりに簡単である。同好の人達が寄れば出来る。ところが、それからが大変なんである。釣りクラブは人間が作ったもので、釣りクラブは勝手に独り歩きを、してしまうのだ。 そこで、今度は、人がクラブの手綱を上手く取って正しい方向へ向けなければならない。 釣りクラブの出来たての頃は、皆が新入会員でリーダーが右と言えば右、左と言えば左に動いてくれて何の問題もないんだが、新入会員も一年たてば釣歴一年、三年たてば釣歴三年。一人一人が釣りに関してはベテラン、ポリシーも釣りに対する姿勢も個性が出て来る。集会での発言も増え、お互いが逆の方向へ動こうとする事さえある。しかし、これは至極当然な事なので、この頃からリーダーの手綱さばきが大事になってくるのだ。20年と言う歳月が釣りクラブにとって如何に貴重なものなのか、これによってもわかると思うのである。 さて、海洋磯釣倶楽部は20年前、北九州市若松区内にある 葛g田印刷所、社内の釣り同好会として発足したと聞いている。初代会長は、たしか保里剛太郎さんだったと記憶している。 何故、物忘れがひどく、うかつ者の私がそんな事を覚えているかと言うと、実は保里さん(故人)は、私の高校時代の同級生なのである。ラグビー部に所属し、バリバリのスポーツマンだった彼と、怠惰な軟派学生だった私とは、高校時代も接点は少なく、余り会話もなかった様に思うが、クラブの会長として名前を見たときに“あゝ、保里君も釣りをするのか”とホノボノとした感慨があった。 “今度、同窓会でゆっくり釣りの話しでも”と思っていたら、早々に彼は居なくなってしまって残念なことである。 小さな釣りクラブから海洋磯釣倶楽部は、和と・連帯と・発展を求めて外に出てきて、現在の会長は上瀧勇哲さんである。九州磯釣連盟の北九州支部に所属し、その中核を成し、活躍ぶりは周知の所である。上瀧会長は、小誌にとって欠くべからざる常任筆者であり、その投げ釣り理論は彼の独壇場である。20年間にわたり、釣り会をメジャーな方向へと手綱を取ってこられた、その手腕には敬服のほかない。20周年を一つの句読点、通過点とし、今後益々の発展を祈念するものである。 |
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九州の釣り文化を貴めた人々 九州磯釣連盟 北九州支部 若松地区・海洋磯釣倶楽部 上瀧勇哲 ![]() ![]() ![]() |
第二部 九州磯釣連盟の恩師 リンク |