九州磯釣連盟 海洋磯釣倶楽部(サーフメイズJAPAN)2025.3月で創立50を迎えました
Sports fishing information service japan1976.3. 
サーフメイズ JAPAN&海洋磯釣倶楽部 広報     musick クラシック( ) bP1 


北九州市若松区洞海湾に架かる若戸大橋、その橋台そばに若松港があり、この地から数多くの文化人が育った。

2019.4.  第一部 釣り人生を謳歌した釣り人 九州新潮会 福山和幸さんを偲ぶ


             九州文化めた人々2

   
1969〜2023 第一部 海洋磯釣倶楽部 発祥

       江藤のおじいちゃん 若松 はまや釣具店 先代店主


写真中央、江頭のおじいちゃんと奥さま、1985.5、海洋10周年大会にて。新しい「はまや釣具店主」2代目江藤さん。

  江藤のおじいちゃん 若松 はまや釣具店 先代店主

会社の釣り同好会が組織され、頻繁にお世話になる若松区大井戸町の「はまや釣具店」さんとは昭和40年代からお付き合いがある。
小さなお店であるが゛、活きの良いモエビと虫エサは釣り人から信頼され、週末の夕方になると店の中はごった返すほど盛況があった。

店主の江藤さんご夫婦は、あまりにも歳が離れていたので、当初は、おじいちゃんと娘さんがお店を切り盛りしていたと勘違いした。
若奥様の愛想の良い商売上手は、釣り人達のマドンナであり、おじいちゃんは20代の私を、何ゆえか可愛がってくれた。

「金にならない活きの良いエサ?」「秘伝の釣り仕掛け」「釣りの穴場」をたくさん教えて貰った。
その落ち着いた口調で、ゆったり分かりやすく説明してくれるし、商売人でない気質は若奥様と二人で似合っていた。

海洋磯釣倶楽部の大会にはいつも賞品の寄贈はあるし、10周年大会にはご夫婦で参加をしてもらい、お店の記念売出し日には印刷会社のチラシ作りから販売までのお手伝いを随分させてもらった。

そんなお店も、新しく新店舗を建てられ、神戸より帰ってきた息子さん一家に店を任せ、ともに過ごされた一時は楽しかったに違いない。
昭和から平成に変わり、新しい店舗に海洋磯釣倶楽部の看板を掲げ、毎月の常会を、お店で出来るぐらいの交友を息子さんご夫婦の好意でさせて頂き、様々なイベント行事にご協力頂いた。

又、有名な「若松浜磯会」や磯釣り倶楽部 仙人会、若松坊主会さんの看板を掲げていることで、お店を基点にした親交が今でも続いている。

しかし平成18年、時代の波についてゆけず、静かに閉店させ、今はご夫婦で仲良く二島の新居地で暮らしている。ちなみに先代の若奥様は福岡市内のホームでお元気で暮らしている。

                                      昭和44年から平成24年


1985.5、海洋磯釣倶楽部の10周年記念大会、若松ひびき灘、安瀬埋立地で一般参加者150人で開催した


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  ダイナミック磯釣り連合発祥の地 若松 矢野釣具店さん


昭和40年代の若松には区役所前の伊木釣具店さん、はまや釣具店さん、そして矢野釣具店さんが最も勢いのある人気のお店であった。そのどちらもお世話になったが、中でも矢野釣具店に事務所を構えるジャパンダイナミック磯釣連合の勢いは凄まじかった。

全九州釣ライター協会の小路先生や田中釣心先生が、このお店に来られたり、近くのレインボープラザ(公民館)には、おふた方の釣り講座が毎週催され、海洋の会員さんも随分通った。

店主の副島さんから、がま磯ロッドを破格の値段で頂いたり、浜町公民館のセールには仲間達と良く通った。
そのお店も副島さんを亡くし、響町に移転し、イレグイFCとして若夫婦が盛況を得ていたが、平成25年静かに店を閉じた。

                                        昭和45年〜60年代


1978.7.北九州市戸畑市民会館で表彰式は九州磯釣連盟釣り選手権大会で入賞した、保里会長と海洋磯釣倶楽部の会員と小路会長と


1983.6、九州磯釣連盟、若松地区主催の若松ひびき灘一帯釣り大会、16クラブ、240名参加。連盟から小路 隆 広報部長挨拶、

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  若松磯釣倶楽部 育ての親 福浦朱竿さん


九州磯釣連盟北九州支部若松地区大会で挨拶する福浦さん、その周りに若松地区各クラブ会長、左、原口久雄 九州磯釣連盟副会長などオピニオンリーダーが揃う表彰式は活気が漲っていた。



妻の幼なじみの徳王裕子さんが勤める会社社長が、かの有名な福浦朱竿さんであった。

月刊 釣ファン誌で紹介される師の記事や九州磯釣連盟相談役としての活動、色々な釣り大会等で挨拶される度に遠くから、お顔を拝見していた。又、若松磯釣倶楽部の事務所がある伊木釣具店の「親睦会」にも席を置いていたので、私の師匠である空閑さんと入会し、若松敬竿先生や木村歯科の釣りキチ先生のすご腕を、とにかくそばでいつも見ていた。
特に厳寒期の筑前大島外波止から港内を二段ウキで静かに釣っていた福浦朱竿さんの竿が究極なまでに曲がり、身動き一つしない手さばきでタモ入れしたチヌは3枚。あの時、あの姿を今でも忘れない。

そして九州磯釣連盟 若松地区大会の表彰式に於いて一人静かに周辺のゴミを拾い、ご自分のバッグに詰め込む姿を見て、改めて氏の釣界によせる気持ちを知った。しかし、師が、まさか若松の海で亡くなるとは夢にも想わない出来事だった。葬儀で知る、師の偉大さを感じ、感情を抑えきれない多くの釣り人が泣いた。

                                           昭和58年頃




九州磯釣連盟北九州支部若松地区大会で挨拶する磯連二代目会長 原口久雄さん、毎年開催しているこの大会から多くのリーダーが育つ。


1981.6、九州磯釣連盟、若松地区、夜釣り大会。福浦朱竿さんからトロフィを授与される若松坊主会、片桐さんら入賞者


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  名門 若松磯釣倶楽部を慕う 伊藤喜啓さん と 伊木釣具店さん

九州磯釣連盟が発足し、初代 若松地区長に若松磯釣倶楽部の伊藤喜啓さんが就任された。

そのお店を持つ料亭「伊藤屋」には釣り人集団がいつものさばり、週末はごった返すほどの盛況があった。その店や若松文化体育館で、地区長会議の開催があり、私は度々海洋磯釣倶楽部 保里剛太郎会長のお供で良く通った。

温厚で人に優しく、気配りのある伊藤さん人気は凄いものがあり、同じ若松磯釣倶楽部の若松敬竿先生とは大の親友で、店の伊藤屋は弟子の若者でいつも埋まっていた。

九州釣界の中でもトップクラスの若松磯釣倶楽部は有名なスターを数多く産出するところに福浦朱竿、伊藤喜啓、若松敬竿さんの力量が多くあった。 その伊藤さん、40代の若さで亡くなってしまった。

その若松磯釣倶楽部の事務局である伊木釣具店は、私が勤める吉田印刷所から歩いて15分ほどのところにあり、店の奥で留守番している、おばあちゃんから手作りの貼り絵の色紙を良く貰った。

伊木の親父さんも名門若松磯釣倶楽部の要職にあり、このお店で若磯の常会から若松地区長会議等で随分通った。
しかし、平成年度に元気の良い親父さんを亡くし、店が消え、若松磯釣倶楽部も下村会長を要す九州新潮会と分かれ存在が薄れた。

                                      昭和52年〜平成6年頃




九州磯釣連盟北九州支部 若松地区大会で挨拶する九州磯釣連盟 二代目 原口久雄会長、そして事務局長の下村要一さん1982.7.,

 

1981.6、九州磯釣連盟、若松地区、夜釣り大会。小路隆、九州磯連広報部長(兼)副会長挨拶


1980年代から2010年まで若松地区長が7代にわたり変わり、若松響灘の大会が多くあったが、会員が110人、支部と合わせて140人となり大会の内容が変わった。

          九州文化めた人々2


  黒鯛に恋した釣り人 若松敬竿さん (山本敬三)



敬竿さんと始めて会ったのは1970年ごろ。勤めていた北九州市若松、吉田印刷所社内の上司、空閑主任に誘われて区役所前の伊木釣具店が母体の「親睦会」に入会したのがきっかけ。

その会に若松敬竿さんはもとより、あの有名な福浦朱竿さん、駅前の木村歯科院長や伊藤喜啓さん達が居て、とにかく、この会はそんな人達を交え、和気あいあいの賑やかな会だった。

その当事の私は、まったくウキふかせ釣りが分からない初心者であったが、遠くから有名人達の釣りを見ているばかりであった。もっとも、その人達がかの有名人とは全く思ってない若い私でもありました。

それが昭和51年、海洋磯釣倶楽部を結成、52年に発足した九州磯釣連盟に入会し、北九州支部、若松地区所属の中に若松磯釣倶楽部、そのクラブが九州釣界を代表するクラブで、代表世話人の中に福浦朱竿さんや伊藤喜啓さん、顧問に若松敬竿さんがいることを知ります。

そして身近に感じるようになったのは、月刊 釣ファンの雑誌の中で、敬竿さんの投稿記事が評判で「二段ウキ釣り法」「チヌ釣り大全」等という書籍を書く、凄い人が私の家(吉田印刷アパート)の近くに住んでいることを改めて知るのでした。

しかし、私の釣りスタイルの中には、その偉大な釣り法は番外でしかなかったのです。
投げ釣りをメーンに活動しながら、私も月刊 釣ファンへ投稿するようになりますが、その中でも、若松敬竿さん人気はものすごく、チヌ釣りファーンの憧れの人だった。又、島本修一さんがリーダーとなり、無理やり入会されて、ヤング鬼笑会が結成されます。それで磯釣りをしていたころ、噂の敬竿さんから二段ウキの使い方、アドバイス、師匠とする弟子が何人もいて、とにかく人気の敬竿さんでした。

平成に入り、敬竿さんご夫婦が、なぜかしら月刊「 釣ファン」の社長。編集長の敬竿さんに原稿を持って行く度に、温かいおもてなしを受け「投げ釣りは上瀧さんだけがたよりです」と良く言われたものです。そして、こんなにたくさん稿料を貰って良いのだろうか、と思うぐらい頂きました。

敬竿さんの魅力は、身長180pぐらい、プロレスラーのような体格ですが、ユーモアを交えた話しぶりと、ゆったり、落ち着いた会話に引き込まれてゆく丁寧な言葉遣いに、あの豪快な石鯛釣りとか、微細なチヌ釣り師とは思いもよらない人でしょうか。
人を虜にする!!人間って、世の中多くは居ませんが、敬竿先生の魅力に引かれた釣り人がチヌ釣りの神様あつかいにするのは、こんなところから感じているのかも知れませんね。

そのような敬竿さんが、いつの間にか引退され、若い経営者に引継がれます。その後、敬竿さんとのお付き合いが、とだえ、釣界から引退されたと下村要一会長から聞くことになります。

九州釣界には、多くの先輩諸氏が居て、道筋を正しく整え、方向性をしめし、釣界のありようと、これからの釣りビジョンとは何か、を教えてくれました。そのテーマを九州釣り文化人の方々が熱い想いで示してくれています。

敬竿さんの釣り人生は、釣りスタイルを極めた「究極の釣り人」「釣り大学の教授」に例えられます。私はその学校で学ぶ生徒の一人だったかも知れません。

敬竿さんの釣り人生は、私達、釣り文化人が目指す生き方でもあり、「釣り心」をこよなく愛し、深く探求するハートの中で、思いやりとか優しさを、たくさんの釣り人に分け与えながら、自己の人生を全うした方ではないでしょうか。静かに去られた若松敬竿先生のご冥福をお祈りします。

                                         平成20年12月

平成7年7月に海洋磯釣倶楽部創立20周年記念誌を発行しました、その時に頂いた若松敬竿先生のメッセージ文を紹介します


    海洋磯釣倶楽部20周年 祝辞


                                            
月刊 釣ファン 主幹 若松敬竿

海洋磯釣倶楽部が創立20周年を迎えられたのだそうだ
心からお目出度うを申し上げたい
釣りクラブと言うのは、つくるのはわりに簡単である。同好の人達が寄れば出来る。ところが、それからが大変なんである。釣りクラブは人間が作ったもので、釣りクラブは勝手に独り歩きを、してしまうのだ。
そこで、今度は、人がクラブの手綱を上手く取って正しい方向へ向けなければならない
釣りクラブの出来たての頃は、皆が新入会員でリーダーが右と言えば右、左と言えば左に動いてくれて何の問題もないんだが、新入会員も一年たてば釣歴一年、三年たてば釣歴三年。一人一人が釣りに関してはベテラン、ポリシーも釣りに対する姿勢も個性が出て来る。集会での発言も増え、お互いが逆の方向へ動こうとする事さえある。しかし、これは至極当然な事なので、この頃からリーダーの手綱さばきが大事になってくるのだ。20年と言う歳月が釣りクラブにとって如何に貴重なものなのか、これによってもわかると思うのである。

さて、海洋磯釣倶楽部は20年前、北九州市若松区内にある 葛g田印刷所、社内の釣り同好会として発足したと聞いている。初代会長は、たしか保里剛太郎さんだったと記憶している
何故、物忘れがひどくうかつ者の私がそんな事を覚えているかと言うと、実は保里さん(故人)は、私の高校時代の同級生なのであるラグビー部に所属し、バリバリのスポーツマンだった彼と、怠惰な軟派学生だった私とは、高校時代も接点は少なく、余り会話もなかった様に思うが、クラブの会長として名前を見たときに“あゝ、保里君も釣りをするのか”とホノボノとした感慨があった
“今度、同窓会でゆっくり釣りの話しでもと思っていたら、早々に彼は居なくなってしまって残念なことである。

小さな釣りクラブから海洋磯釣倶楽部は、和と・連帯と・発展を求めて外に出てきて、現在の会長は上瀧勇哲さんである。九州磯釣連盟の北九州支部に所属し、その中核を成し、活躍ぶりは周知の所である。上瀧会長は、小誌にとって欠くべからざる常任筆者であり、その投げ釣り理論は彼の独壇場である。20年間にわたり、釣り会をメジャーな方向へと手綱を取ってこられた、その手腕には敬服のほかない。20周年を一つの句読点、通過点とし、今後益々の発展を祈念するものである。


 
若松敬竿さんは九州磯釣連盟、創立メンバーのスタッフとして活躍されました。

          九州文化めた人々2

 九州の釣り文化を貴めた人々 
                          左 渡辺さん、 右 若松荒磯倶楽部 会長 松尾記久三さん


       九州磯釣連盟 北九州支部 若松地区
          若松荒磯倶楽部 会長 松尾記久三さんを


昭和52年、春、西日本で最大組織の九州磯釣連盟が創立された。
初代会長は都留正義さんで、都留会長は北九州市門司区柳町で、大きな酒屋さんを経営している人でした。
その酒屋さんに連盟事務所が開設されたので、私達は、頻繁に通う事になりました。
店に入ると「いらっしゃいませ」と奥様、「すいません、魚釣りの用事で来ました」と言ったら、
「どうぞ、奥で主人がいます」ということで案内され、
都留さんの顔を見ると「オーッ、上瀧くん」と、気安く声をかけてくれる。


親しみやすい、親父のような都留会長が、全日本磯釣連盟時代から築き上げた、数々の戦歴を、
色々なパターンで紹介してくれ、いつもの自慢話しが弾む。
その中で、都留会長が最も得意とするシロキス釣りの話し、そして大物釣り場を詳しく教えてくれる、すごーく優しい釣り人です。

全日本サーフキャスティング連盟・北九州サーフ協会の金田協会長と良く通う長崎県対馬は、尺キスを一晩で30本とかいう信じられないよう事を、惜しみなく教えてくれるので、私は都留会長が所属する門司磯釣倶楽部に入部したかった。

都留会長は、スポーツニッポン新聞社の釣り常任執筆者で、サーフ「投げ釣り」のシロキス大物釣りで有名な方。
それで私達は、しょっ中、スポニチ新聞の釣り記事を読んでいました。

そのような都留会長をトップリーダーにした、6000人の九州磯釣連盟が活動を始めたころ、私は北九州支部 若松地区、海洋磯釣倶楽部の書記長として、保里剛太郎会長のそばで、お世話係をしていた。そんな中、初代 北九州支部 若松地区長は若松磯釣倶楽部の伊藤善啓さん。当時は18クラブ、250人ほどの若い会員がいました。

その中に、若松荒磯倶楽部 会長、松尾記久三さんがいました。
当時の私は、海洋磯釣倶楽部 保里会長の補佐役として、時々、若松地区の会長会議から、若松地区大会とか、支部のアクションプログラムに参加しながら、若松地区の気風を感じるぐらいの若者でしかなかった。
その後、保里会長から渡辺会長に移行し、平成年度から会長代行として、若松地区、会長会議に頻繁に行くようになった。
そして若松荒磯倶楽部 会長 松尾記久三さんとの関係が密になってきました。


心穏やかな方で、会話はいつも低音、低い声で、分かりやすい口調がすごく好きで、可愛がってもらった、というよりは、兄貴分の方だった。私より3つ年上。奥様が私と同じ年と聞いた。
若松地区大会とか、北九州少年少女釣り大会では、とにかくお世話係、大好きの松尾さんがいました。
リーダー的な役割から、地区の会計が主なボランティアなのだが、キッチリ、丁寧な仕事をすることで、長いこと奉仕されました。
時々、仕事の話しを聞くと、神社とか、お寺の、きめ細かい修復工事を主にする向洋技建の社長さんで、4人の子供さんがいると聞いていました。
一級建築技師の免許を持ち、匠の技巧で、国、県などの無形文化財等を修復するので、大分県中津市とか国東の寺院から仕事の依頼が多くあり、洗練された昔の建築物を再生するには、やはり同等な技術と時間が、かかるとかでした。

その松尾会長、釣りの方は、とにかく大物釣り。石鯛からマダイ、クロ、ヤズ狙いで、長崎県の五島方面がホームグランドとし、若松地区の会長会議では、このような大物釣りの話しから、近場の釣りなどをコミュニティーしながら、まとめ役として、信頼を高めた方でした。
そして、経営する会社では、釣りキチさんが多い社員を抱える、腕のいい社長さんとして有名で、仕事に情熱を注ぎながら、4人の子供さんを、温かく見つめ、育て、家族を大切にした方でもありましたね。
松尾さんとコミュニケーションしていると、ほんのりと、軟らかい性格と気風は、こんな所から、滲み出てくるのでしょうかね。

そのような松尾さんは、趣味の釣りを生甲斐にした、模範的な優しい方でした。

先日、会社で奥様と、お会いしたときのお話しです。
ご主人は「自由勝手に釣りがしたいので、脱サラして、今の褐洋技建を立ち上げた」のですよ、とかの話しでした。
北九州少年少女釣り大会では、自慢の技巧で、入賞お立ち台の寄贈とか、大会などの備品は全てプレゼント。
人が良いというより魚釣りが好き、子供が好き、そして未来を見据えたアクションを、チームリーダーとして九州磯釣連盟、北九州支部 若松地区を纏めて頂いたことです。


そのような若松地区の気風は、初代の地区長、伊藤善啓さんから続くもので、あの有名な福浦朱竿さん、若松敬竿さんなどの、有名スターがベースを作り、それをそのまま、若松荒磯倶楽部 会長 松尾さんのような、リーダーが受け継いでいることで、昔と変わらない若松地区の絆が今も続いているのですね。

そして、いつの間にか松尾さんが去りました。
この稿を書いている平成30年4月は、もう3年前の出来事とかでした。


私が所属する海洋磯釣倶楽部は、行橋市に事務所を構えたことで京築地区所属としていました。それで、若松地区所属の若松荒磯倶楽部、彼(松尾さん)の事は、全く聞いてなかったのです。
現在は、古巣の若松地区に海洋磯釣倶楽部は戻り、再び若松荒磯倶楽部さん、との関係を深くさせて頂いています。

この稿を書くにあたって、褐洋技建の、会社がある北九州市小倉南区母原に行き、奥様とお話しができました。
又、四男の巧さんとは「西日本釣り博」で話しが出来たりしていましたので、親しいお話しが皆さんと出来ましたこと、ありがとうございました。


松尾記久三さんが大好きだった、長崎県上五島の磯釣りは、毎年の5月に奥様と息子さんファミリーで通っていたとかのお話しでしたが、その想い出を再び、巧さんファミリーと、奥様も、ご一緒されるとかのお話しがありましたね。

現在、住宅工事のリフォームを、主に手掛けている褐洋技建ですが、奥様と、二人の息子さんが運営している釣り大好き、ファミリー会社です。みなさん、応援して下さい。そして松尾さんのフレーズ「五島の海よ、ありがとう」

                                        記  上瀧勇哲
2018.4.



   九州の釣り文化を貴めた人々
       釣り人生を謳歌した釣り人 
   九州新潮会 若松地区長 福山和幸さん(福岡県北九州市)


 春の西日本釣り選手権(スポーツニッポン新聞主催)九州磯釣連盟審査部長の福山さんを囲んで仲間たち

住み慣れた北九州市小倉南区から行橋市に住いを構えた2001年。妻、洋子ちゃんが気に入った中古屋は鉄筋2階建、6LDK、150坪ほどの緑が豊かな家。その中で私の書斎と、釣具などを保管する室。加えて、洗濯機とか物置を兼ねた室?を増築した。その建て物は私と息子の二人で建てた手作りで、大きな窓サッシを3面に、勝手口のドアなどは福山さんが寸法を計り、わずか1日で4つのアルミサッシが入った。「上瀧さん、この窓も、このドアも、建具が曲がってイルよ」とか言いながら、上手に修復してくれて、朝7時から午後4時には終了。支払いは、わずか7万円。「ウソー」。北九州市若松から行橋まで来て、施行してくれたのに、とんでもない金額に驚いた。「上瀧さんとは友達ヤン」とかの話しだったが、福ちゃんの奥様に申し訳ないので、プラス1万円と30sの新米を無理やりプレゼントした。

 九州磯釣連盟北九州支部 平戸あじか磯釣りセンター 懇親釣り大会 松井支部長の元で事業部長若松地区長の福山さん
そんな間柄の福ちゃんは、九州磯釣連盟、下村要一会長の元で、審査部長とか事業部長を兼任し、若松地区長として10数年、私達のお世話係とし大活躍されました。同じ若松地区所属の海洋磯釣倶楽部と私は30数年来の親友と私は想っている。ときどき福ちゃんの住いに訪問することがあるのだが、奥様とは結婚式から続く、長い顔見知り。娘さんが中学まで「少年少女釣り大会」に参加するとき、いつも近所の子供達を大勢集め参加する福山一家は、とにかく賑やかしく、奥様の明るさがプラスされ、いつもその中に入れる私でもありましたね。

  全九州釣りライター協会30周年記念で福山さん、グアム島釣り旅行、大当り
我が家の玄関ホールのカベに、長さ23mほどの6段の飾りガラス棚があります。この棚も福山さんが入れてくれた厚いガラス板は、九州磯釣連盟の優勝クリスタル像とか、洋子ちゃんお気に入りのお人形さん、フィギュアが飾られ、遊びに来てくれた釣り仲間の、自慢の玄関ホールとなっている。他にも、厚さ10m/mのテーブルガラスを3枚とか、5枚とか、切ってもらうため、福ちゃんの工場に行くと、すぐに、パリン!! と切ってくれるテクニック。さすがガラス・サッシ屋さん。私と同じ68才だが、パワーが全々違う!!。そして、これらの作業とか、ガラス代金、一切受け取らない。
「ガラスは中古だからイインよ」。それでもポケットに入れると「上瀧さん、オレ怒るよー」とか言う。仕方なく、福ちゃんが留守のとき、ビールケースなどを届けていた私です。
そのような人の良い性格は、誰からでも愛され、福ちゃんの周りに、いつも釣り人が参集する気風が、九州磯釣連盟を盛り立てる存在となっていました。下村要一会長の右腕となり、大活躍した福ちゃんでしたが、下目線から多くの釣り人に尊敬され、慕われ、九州磯釣連盟の糧となったことを心から御礼申し上げます。ありがとうございました。
2019.4.

              九州磯釣連盟 北九州支部 若松地区・海洋磯釣倶楽部 上瀧勇哲

九州磯釣連盟 定期総会のち、割烹ひかりで懇親会。事業部の福山さん、釣り仲間の総務、木下さん。同じ日に博多フレンドサーフ20周年のお祝を梅原 昌会長、打越豊一顧問へプレゼントしました。











            第二部 九州磯釣連盟の恩師 リンク












          九州の釣り文化を貴めた人々 2

第二部 九州磯釣連盟の恩師





                 エピソード・配信 海洋磯釣倶楽部 上瀧勇哲