九州磯釣連盟 海洋磯釣倶楽部は(サーフメイズJAPAN)2025.3月で創立50年を迎えました
ホームページ2006.開設から2025.更新 海洋磯釣倶楽部の礎を築いた恩師 3. musick ハンガリー舞曲第5番(ブラームス) 05
北九州市洞海湾を跨ぐ若戸大橋は若松・戸畑のシンボルとして私達を癒してくれた。その海のそばで海洋磯釣倶楽部が生まれ、多くの釣り仲間がこの地をベースにして絆を結んだ。この写真は戸畑渡し場公園から見た若松の街、そして若戸大橋。北九州市小倉から若松の街に行くとき、必ず利用する若戸大橋は半世紀過ぎても朱色、その朱色が映し出す海の色は、ま茶色から青に変わった。コーヒー色したヘドロ臭い洞海湾と、どす黒い空の色だった公害都市北九州市若松、その時代を駆け巡った海洋磯釣倶楽部の恩師を紹介しょう。 |
ようこそ海洋磯釣倶楽部へ1.を修正 そして2013.海洋磯釣倶楽部2.〜 2017海洋のホームページ3.に続き、 2021版. 海洋磯釣倶楽部4 2025年より・海洋磯釣倶楽部5を新しく開設リンクご覧下さい版 |
2024.より、新しいウインドウズ10、からホームページヒルダー22.より 「上瀧勇哲のホームスタジオ JAPAN2」 及び 「勇哲.洋子のポートフォリオ パート4」 及び 「サーフメイズJAPAN2」 及び 「ようこそ海洋のホームページ5」 を新しく更新しました。以前と全く違ったスタイルでご案内中です。ぜひ、リンクしてご覧下さい。 上瀧勇哲 2025.1 |
2025.3. 新しいバージョンで紹介 新 海洋磯釣倶楽部の礎を築いた恩師 稿 海洋磯釣倶楽部 会長 上瀧勇哲 記載する写真は1969〜81まで |
海洋磯釣倶楽部、歴史で生きる恩師
始めに、若松で誕生した海洋磯釣倶楽部のおいたちには、先輩達の篤い愛で育まれた歴史がありました。
「たかが釣り、されど釣り」ということわざは、遊びの釣りではあるが、その面白さ、楽しさに深く没頭し、生き甲斐として釣趣を極めた先人たちの遊び心に原点があると想います。
私達は趣味である釣りを、海洋磯釣倶楽部を通して楽しんでいますが、そのクラブの価値観を貴めてくれたのが先輩達であり恩師です。「海洋のおいたち」は先輩達の熱い歴史でもあるのです。
その歴史、生い立ちに関わり、その事を会員のみならず沢山の人々に紹介し、釣り人の想い、優しい自然で得たことを皆さんのハートに刻みたいと想います。
海洋磯釣倶楽部 創立会員 上瀧勇哲
新 海洋磯釣倶楽部の礎を築いた恩師 海洋磯釣倶楽部 初代会長 保里剛太郎さん |
1978.海洋磯釣倶楽部の賑やかしい総会・新年会は毎年の2月、若松二区公民館などで開催していました
海洋磯釣倶楽部 初代会長
若松高校ラクビ―部のキャプテン 保利剛太郎さん
海洋磯釣倶楽部が結成された1970年代の頃、保里会長と九四国道フェリーで行く四国愛媛県佐田岬や大分県蒲江、山口県の山陰青海島など良く遠征していました。
会長は新しく買ったスズキ・セルボを乗り廻し、とにかく仲間達と釣りで遊びました。その保里会長は根から大好きの花見酒は、いつも釣りバッグにワンカップ大関が半ケース入っていましたね。
保里、東、益田、 保里、東、上瀧勇哲、愛媛県佐田岬で
四国佐田岬半島正野港は春と秋の大型連休日を利用し、兄の東さん、内田さん、藤崎さん、そして私、益田さん等、2台の軽自動車で7〜8人の釣り旅行が普通だった。
波止から入れ食いする大アジにクロ、メバル、ヤズ、サーフする弟や益田さんには35pカレイや29pオーバーの巨キスから、アコウ、カサゴ、とにかく行けば必ずクーラー満パイとなる釣行に私達は大満足でした。
益田、上瀧哲郎、保里、藤崎、九州磯釣連盟北九州支部若松地区大会で全員表彰された、上右端、保里会長
その中でも釣りを半分楽しみ、夕方から正野港の神社境内でチビリチビリやる酒懇親会が始まる。
私は飲まないが、保里さんを囲み、内田、益田さんはいつもご機嫌だった。
なんせ夜釣りで30pオーバーのアジが入れ食いで、クロ、チヌと、とにかく寝る暇もないぐらい良く釣った佐田岬半島の釣行。
保里さんだけは、家族で食べれるだけで十分と言い、釣りはいつも半分。その会長のクーラーは皆からのおすそ分けでいつも満タンだった。
正直釣りは上手ではなかったが、釣りの遊び心と仲間が好きで私達をもてなしてくれる大きなハートが皆から好かれた。
1979.7.戸畑市民会館において九州磯釣連盟釣り選手権で保里会長まん中にして8人入賞した
そんな保里さんは職場の上司であり、温厚で太っ腹、人間の大きさは社内随一、しかも面倒見が良く、人当たりがイイので誰からも好かれた。
海洋磯釣倶楽部はそんな保里会長を望んでいた。
若松高校ではラグビー部のキャプテンをやり、あの有名な若松敬竿さんと同級生であることを後で知った。そんな保里さんファミリーから好かれ、同僚から羨ましがられるぐらい社内で可愛がられた。
愛媛県佐田岬正野港において保里、藤崎 下・上瀧哲郎、上瀧勇哲、 上・益田、保里
会長宅で海洋磯釣倶楽部の常会や新年会をよくした。踊りの師範である奥様や一人娘の美由紀ちゃんまでジョーさんと呼んでくれた、賑やかで明るい家庭は大好きだった。
しかし、転職され海洋磯釣倶楽部から身を引いた保里さんではあったが、私は酒を持って良く遊びに行った。あのとき、あの笑顔、いつも大歓迎の保里さんだった。
そして、酒の飲みすぎで命を削った保里さんを送ることになった初夏、兄の東さんが「よう来てくれた」と泣いた。まだ60才だった。
1976.3.〜1993.6. 若松中畑町
新 海洋磯釣倶楽部の礎を築いた恩師 海洋磯釣倶楽部 相談役 内田小次郎さん |
海洋磯釣倶楽部 相談役
身障者で40年の釣りキチ 内田小次郎さん
その保利会長と義兄弟の内田さんは、奥様が三姉妹の仲、長女が釣り仲間の東さんの奥様、次女が内田さんの奥様ということで、私達、海洋磯釣倶楽部はこの三姉妹に関わる三兄弟と深いお付き合いをする事になる。
大分県蒲江尾浦港で益田、内田 いつもクロが入れ食いした尾浦港は若松から片道6時間かかった。
内田さんは印刷所の活字組版を職業とする方で、私の大先輩にあたる方。
釣りの楽しみ方、特にウキ釣りの面白さを優しく教えてもらったり、仕事もジョーさんで呼んでくれ、すごーく面白くて、親しみのある方だった。
そんな内田さん、身体障害者で左足全てが義足でありながら、一般人以上に「仕事」と「釣り」そして「酒」には凄いものがあった。
大分県蒲江尾浦港で下、保里さんと美由紀ちゃん、東さんの息子 上、内田、大庭、緒方、東
いつもご自分のポリシーを持ち、なかなか持論を曲げないから職場で良くケンカをした。
しかし、私には愛弟子として、仕事も釣りも人一倍良く可愛がってくれた。
浮子ふかせ釣りが得意で、オーナー鈎の細身のOHヤマメ鈎は彼の愛用針で、波止の小物釣りでは誰よりも釣好が勝っていた。
聞いてくる釣り人には親切に仕掛けなどを教え、釣りの先生と皆から敬われた。
そして今のオーナーカットメバル鈎は彼の持論の針としてクラブ員が多用している。
山陰の波止、大分県蒲江の波止群、それに宮崎県門川の波止から、佐賀県肥前町、呼子の波止など、毎週のように誘われたあのころ。
磯釣りの場合でも彼だけ渡船基地の波止で釣りをし、磯組より内田さんの釣果がいつも勝っていた。
そんな家庭の中、奥様や一人娘の由美ちゃんと一緒の時々の食事会。そんなとき、「ジョーさんが内の由美をもらってくれたらナァー」が口癖だったご夫婦。
あのころの由美ちゃんはまだ小学校5〜6年生。目の大きな可愛い女の子が兄ちゃんと呼んでくれていたあのころ。
山口県長門市青海島で左上から緒方、益田、内田、浜辺、浦本、下は上瀧勇哲
次の写真下、上瀧周作、上から益田、内田、浜辺、緒方、浦本、
医師から注意されていた酒。飲みすぎて肝硬変、病院に見舞いに行くと
「ジョーさん、退院したら蒲江尾浦に行こうナァー」
そばで聞いていた奥様が「なに言よっとねエー」
それでも内田さん 「まだ50pオーバーのチヌ釣ってないケェー、番匠川も行こゥヤー」などなど。
早く去ってしまった内田さん、まだ50代だった。涙が溢れた葬儀に保里会長、東副会長の義兄弟、そして釣り仲間大勢の葬式だった。
横浜で由美ちゃんの結婚式、内田さんの親友としてのお祝いの言葉、涙でくれた奥様も後を追うように去ってしまった。
1970.〜1991.5. 若松用勺町
新 海洋磯釣倶楽部の礎を築いた恩師 海洋磯釣倶楽部 顧問 萩原金安さん |
海洋磯釣倶楽部 顧問
ユーモア―が自慢の吉田印刷磯釣倶楽部 会長 萩原金安さん
会社に入社して間もない私を、始めて釣りに誘ってくれたのが萩原さんだった。
萩原さんはオフセット機械を操る技術屋さんで、昔は石版で原色カラーを印刷したり、新聞紙より大きな紙で一枚一枚カラー印刷する、印刷所の顔でもある方。
その親父さん、人前に出ること一切なく、いつも脇役で人を表に出す方だった。脇役でありながら場を盛り上げ、楽しい会話とユーモアのある話しは、皆から萩原の親父と親しまれた。
そんな親父さん家に随分通った。
同じ年の息子さん、康満さんは海洋磯釣倶楽部の会員でもあるが、創価学会の青年部主師として活躍された方でもあり、娘さんはお母さんに似て凄く美人。
山口県豊北町角島尾山港で左から浦本、萩原金光、内田、 もう一枚は萩原康光
そんな萩原家も親父さんが定年してすぐに肝臓病で入院してしまった。
釣り仲間では評判の酒飲みで、友達付き合いが良かった分、飲み会に良く誘われたそうだ。
そういえば吉田印刷磯釣りクラブの時代、釣り仲間と若松沖波止先端まで歩いての釣行は約1時間かかるが、その釣り場で酒を飲み、テトラポットから落ちたことがあった。
その時は釣り仲間が6人居たので、皆で抱え、病院に連れていったことがあった。あのときも入院したと想う。
1970.3.吉田印刷磯釣りクラブの山口県油谷町大浦大会で萩原会長が優勝
萩原の親父さんのエピソードはたくさんあるが、とにかく一緒にいると面白い。会社の慰安旅行も親父さんの後を付いて回った独身時代、上瀧、上瀧と、こき使ってくれた仕事が身に着き、一人前の仕事ができるようになったのも萩原の親父さんのおかげである。
その親父さん、定年してすぐに内田さんと同じ肝硬変で去ってしまった。
奥様が「好きな酒をたくさん飲んで行ったから、本望でしたよ」の言葉に、息子さんが
「ジョーさん、酒はないけど遊びに来てョ」
その後、戸畑に引越され、魚釣りとは縁が切れているが、皆さんどうしているだろうか……
1968.〜1981. 若松大井戸町
新 海洋磯釣倶楽部の礎を築いた恩師 海洋磯釣倶楽部 名誉会長 空閑敏明さん |
海洋磯釣倶楽部 名誉会長
私の人生の恩師 空閑敏明さん
私を無理やり磯釣りに引っ張り込んだのは会社直結の上司、空閑敏明さんだった。
高校を卒業してすぐに北九州市若松区、吉田印刷所に入社した。
社員150名ほどの会社に平版製版課、活版製版課、活版機械課、製本課、営業課、それと平版機械課があり、「どの職場が良いか?」と吉田正人社長が聞くが、「何処でも良いですから」と答えたら、社長が「全ての課で仕事を覚えてもらうが、いずれ、会社のリードオフマンになってもらうつもりで頑張ってくれ!!」と、まずはオフセット機械課から学ぶことになった。そして、会社勤めが始まった。
1969.空閑師匠と宗像大島裏の三浦磯に釣行した、その時の空閑師匠。 山口県長門青海島にシロキス釣り
早速、空閑課長から案内され、全自動オフセット印刷機パールというスイス製機械の紙積みからスタートした。この時より海洋磯釣倶楽部となる元祖が、この職場より始まったことになる。
萩原、竜野、中原、荒木、奥村、そして浜部利治さんと、たくさんの先輩が居たが、中でも空閑課長が、なぜか仕事の延長戦の釣りの小間使いとして、こき使ってくれた。
そのイメージが私の人生、生き方を変え、釣りクラブの世話係としてのセンスを植えつけてもらったような気がする。
課長と仕事以外で一緒に魚釣りで遊べることは、色んな意味で有利でもあったし、人間関係を広くアピールし大きく育つ?ことにもなった。
課長の奥様の親戚になる、下関市川棚の石橋さん家や、佐賀市内の空閑さんの実家等へ、泊りがけの釣りを良くした。特に川棚の石橋さん家には個人でも良く遊びに行き、お魚と交換の野菜を良く貰った。
1972.5.吉田印刷磯釣りクラブ大会は若松沖波止、山下渡船を良く利用した、私の隣に空閑師匠
19才になりマイカーを購入した途端、釣り専用車となり、釣り猛者達を入れ代わり宮崎県門川沖磯のビロー島通いを良くした。
そのリーダーが空閑課長であり、気が狂ったように焚き付けられた。
当時は車の免許を持つ釣り人は少なく、ましてはマイカーなど持つ時代ではなかったから、よけいに空閑課長から魚釣りの指導をされた。
5月のある週末、土曜日、仕事が終わり課長の家で夕食。そして藤崎、中原さんを加えて出発。
途中、轄纉cインクス所長や、株ツ橋さんを加えて8人。深夜、宮崎県延岡を過ぎ、門川町いおん川港の松田渡船に着。
午前4時、出船し、5時ごろ淡明るくなった大ビロー島に石鯛マンが上磯。
私と空閑課長はブリバエや小ビローでシマアジ釣り。
昼過ぎの午後3時、納竿し帰港。
船長宅で熱いお茶と、蒸し饅頭をたくさん頂いて出発。
午後8時ごろ別府で温泉に入り、夕食。
若松には午後12時ごろ着。そのまま会社で泊まり込み。月曜日仕事して、やっと家に帰宅。
そのような磯釣りスタイルが当たり前のように毎週あった時代。
@ 5月、6月、7月は、月4度の釣行が当たり前で、石鯛を持ち帰る先輩達。
A イセエビのオミヤゲ付き
B 船長の奥様、娘さんが作った手作りのイモ饅頭と蒸かしパンが旨かったこと。
C 魚を釣りきらない私にいつもオミヤゲ付き。
D 船長さんの娘さんもらったら釣りがタダになると冷やかされること再々。
E 釣りの楽しみ方、釣り仲間の和。
F 会社の仕組み、お付合いの仕方。
G 釣りマナーとゴミマナー。
H そして仕事の情熱と会社組織のあり方。
空閑敏明課長から学んだこと色々。
そして「釣りは遊びで、楽しむもの」と教えられた。
色んなところに連れて行ってもらいながら、社交的、人々と接する出会いを導いてくれた。
仕事を教える時は上瀧。遊びのときはジョーさん。と、使い分けする師匠は私の人生の恩師であった。
その恩師は、持病の腰痛に悩んでいたが、仕事や家庭にも悩みを持ち、毎日、仕事帰りの居酒屋でウサばらし? それでも、私が会社の後継者としての扱いをしてくれた。
その師匠は、まさかの53才で自ら命を断った。
その後、私は若松から離れ離職したが、今だ空閑師匠の奥様と話しができることに幸せを感じている。
1968.〜1977.4.
新 海洋磯釣倶楽部の礎を築いた恩師 海洋磯釣倶楽部 副会長 東 登さん |
海洋磯釣倶楽部 副会長
釣りキチ三兄弟の長男 東 登さん
昭和51年3月に海洋磯釣倶楽部が創立し、その翌年、新入会員が9人も入会し、いっきに25人に膨れ上がった。
一周年記念釣り大会は福岡県鐘崎から波津海岸にかけての区域とし、一般参加も含めて35人ほどのファミリーが参加した。このときからお世話係で参加した東さんは、保里会長の義理の兄さんになる方で、内田さんの奥さまも加えて三姉妹の婿さんが釣り仲間として海洋磯釣倶楽部を先導することになった。
その一周年記念釣り大会には、浦本会員が手製の畳一畳分の応団幕を製作してくれた。そして、この釣り大会にFBSテレビが取材に来たこと。その大会の模様が、夕方、テレビ放映された。
大分県蒲江尾浦港へファミリーフィッシング。下、上瀧勇哲、美由紀ちゃん、保里、東さんの息子、上左から内田、緒方、東、尾浦港の波止でクロはいつも入れ食いだった。
私達のクラブはファミリーフィッシングを主とし、20代前後の若者集団が活力を注ぐクラブだった。
その中で40才そこそこの保里会長に内田、東さんはチームリーダーとし、とにかく若者達を引っ張る役目だった。
若者にない広い知識と、社会人としての良識を、釣りマナーとか、釣り技術、そして人間関係のすそ野を、彼達がとにかく広げた。それを最もアピールしたのが東さんだった。
1979.6.海洋磯釣倶楽部の山口県青海島キス釣り大会で東さんの釣り果
JR若松駅(国鉄)に勤務する傍ら、労組にもパワーを発揮されたそうだが、趣味の釣りに関しては、学生会員をとにかく可愛がった。
その中で、釣りクラブのルール(規則)とか、釣りマナーの原理原則はとにかく口うるさかった。
イヤがる会員もいたが、人の良い保里会長に吸収され、海洋磯釣倶楽部がより高いレベルアップしたのは、東さんのおかげが多大ある。
その、東さんの釣りスタイルは、なんでも屋さん。サーフでも、磯釣りでも、穴釣りでも、イカダ釣りでも、なんでもヤル東さんと、とにかく釣行を良くした。
クラブ以外の四国佐田岬の磯釣りから、大分県方面から長崎県平戸、崎戸、福島、山陰、青海島、須佐、萩へと私と一緒の釣好に内田さん、そして保里さんが混じることが多かった。
そして昭和62年、ある病気で入院され、クラブを休会され、そのまま時が過ぎたが、私達との接点はまだ続く。内田さんを送り、保里会長を送るときも、東さんは付きっ切りでお世話をしていた。
会う時はいつも「ジョーさん、元気してるかョー」「ワシャーもう釣りしてないケンドナァー」と、長身の大きな身体にしては、小さな渋い声でささやく東さんが大好きだった。
1977.〜1998. 若松畑町
新 海洋磯釣倶楽部の礎を築いた恩師 |
海洋磯釣倶楽部の礎を築いた恩師 まとめ
お魚釣りを趣味とし巡り合えた、いく千人、いく万人、の釣り人達。
海洋磯釣倶楽部の長ーィ歴史には、それらの釣り人達が様々なところで出会い、一緒になり、楽しい釣りをし、又、釣りマナーアップや釣りのハートを学んだ。
九州磯釣連盟6000人とか、(公財)日本釣振興会、福岡県支部とか、九州磯釣連盟北九州支部1600人、若松地区では260人とのお付き合いがあり、また、地域の北九州少年少女釣り大会とか、行政からの釣り指導員、そして、海洋磯釣倶楽部が主催する一般釣り人を参集させた釣り大会など、釣りで繋がる沢山の人々との交流は指導者である会長、副会長の絶対的なリーダーがあってこそ成り立つ、海洋磯釣倶楽部にはそのリーダーが多くいた。
たかが趣味の魚釣りクラブではあるが、多くの釣り人をまとめ、より良い釣り文化、思想を目指す過程で釣りマナーアップとか、次世代の子供達の指導パワーを発揮させた恩師、そして先輩達、九州釣り文化を先導させる!!
と言ったらオーバーな表現になるかも知れないが、そのような海洋磯釣倶楽部の気風を育て、伝統を作った恩師をここに紹介しました。
保里さん、内田さん、東さん兄弟に、人生の恩師でもある萩原さん、空閑さんを釣りという狭い可所から紹介させていただきましたが、それぞれの方々の人生の歩みは、もっと奥深く、家族愛や人生論まで立ち入ると歴史になります。
私達は、釣りという趣味で出会った楽しい想い出だけを拾い集め、私との関わり、海洋磯釣倶楽部との関わりを表現しています。
海洋磯釣倶楽部は、今年創立41年を迎えます。
このクラブに足を踏み入れた釣り人、釣り仲間は150人を越えていますが、その中の大部分の方々は、釣りから身を引き、そして自然界へ去った方も大勢います。
1980年から発行していた「機関誌 海洋だより」は、「機関誌 サーフメイズ JAPAN」となり2016.1.1.号の正月号は305号になり、楽しんでくれている釣り仲間へ230部発行しました。
私達はそれらの釣り仲間と先輩達を含め、過去の栄光と現在の釣り文化を、もっと、もっと、アピールしながら、恩師が大切にしていたハートを受け継いでいます。
魚釣りは楽しむもの、みんなで仲良く、優しい自然と触れ合いながら、「九州釣り文化の構築」をはかってゆきたい思います。
2016.3.1. 大和三郎丸 (上瀧勇哲)
ここに紹介した写真は、ごく一部であり、海洋磯釣倶楽部の前身である吉田印刷磯釣りクラブまで含めて、師匠とプライベートの記録写真は1万枚あります。 しかしデジタルしてないフイルムなど整理が出来ていないのです。 たくさんの経費と時間がかります。 また、ご覧になっているホームページは全て私と洋子ちゃんの手ずくりです。 海洋磯釣倶楽部とか、九州磯釣連盟、そして北九州支部、若松地区などの様々な広報活動でアクションプログラムした、私の、血と汗のストリーがこのホームページであり、写真なのです。 釣りの心は、どのくらい師匠の心に寄り添うか、人生の恩師として支えられた深い恩義は計り知れないほど心に焼き付いています。その一部でも感じてもらえたら幸福です。 |
このページは2006.6. 「ようこそ海洋磯釣倶楽部のホームページへ1」 の中で紹介した 「海洋の基礎を築いた恩師」 を再編集し、手直しました。 紹介している写真はデジタル化により、より鮮明になりました。また、文記も、分かりやすく修正しています。その上で、恩師・先輩ともいえる釣り仲間が大勢自然に帰りました。 海洋磯釣倶楽部が創立して早40年が過ぎ、釣り仲間として在籍した150人あまりの釣り人の中で、7割りの釣り人が消息不明、そして私が知る37名の方が自然に帰りました。 今、わずかばかりの釣り人と遊び、交遊を持ちながら機関誌 サーフメイズ JAPANと海洋磯釣倶楽部のホームページを続けています。このページ、等の感想、お便りを待っております。 海洋磯釣倶楽部 事務局長 上瀧勇哲 |
新 海洋磯釣倶楽部の礎を築いた恩師 |
新 海洋磯釣倶楽部の礎を築いた恩師 |
世界でたった一つの花2 | 上瀧勇哲のホームスタジオ2 |
九州の釣り文化を貴めた人々2 | 海洋磯釣倶楽部5 |
海洋磯釣倶楽部のアクションプログラム 1976〜81年 記録写真 |
海洋磯釣倶楽部の総会・新年会は若松二区公民館で10年続いた。保里会長、内田さんそして東さん三義兄弟は海洋磯釣倶楽部にとって欠かせない恩師であった。1976〜90 |
海洋磯釣倶楽部の家族慰安会は若松岩屋のキャンプ。海水浴 1979.7. |
1981.4.海洋磯釣倶楽部 創立5周年記念大会を開催 山口県下関市黒井マリンランド |